神おわす峰へ歩一歩秋の風
神おわす山はどこでもいいんです。神の山と言われる山はたくさんありますけれど、そんな頂上にはお社があるような、そんな峰に向かって、かみしめるように一歩一歩登っていった。その自分たちを秋風が絶ゆることなく吹き晒してをる。ということになるんだと思います。この作者の他の句からすると、熊野ということもあるのかもしれないけれども、神と言えば神、仏と言えば仏。権現ですから。ま、虚子先生に「神にませば」の句があるから、神でもいいんでしょうが、この句だけ見ると、熊野というよりもっと急峻な峰を思いますですね。
唐黍の赤毛を垂らし案山子かな
これ、面白いですね。一昔前だったら、赤毛を案山子に垂らすなんて、思いも寄らないことで、色が違うことに抵抗を感じたんだろうけれど、もはや、茶髪、金髪、何髪でもありの世の中になってみると、唐黍の赤毛もそれはそれで妙に現代的な面白さがあるじゃあないか。と、これは不易流行で言うと、流行の句かもしれませんですね。面白いと思います。
富士を背に土手にいっぱい彼岸花
これ、先ほど、ちらっと申し上げましたけれど、本当に新幹線であの辺、彼岸花が多いんですね。ちょっと高い土手を見上げてをったら、土手いっぱいに彼岸花があって、その先に今日は雲なく晴れて、富士山がくっきりと見えてをった。
曼珠沙華刈り残されて畦に咲く
これもいいですね。「曼珠沙華刈り残されて畦に燃ゆ」とやりそうだけれど、それをやってはお仕舞い。それを愚直に「畦に咲く」となさったところに、好感を持ちました。刈られたものもたくさんあるんだけれども、刈り残されたものもある。こう言われてみると、刈られたものも見えてきますね。面白い句でした。