ひとり食めばさみしくなりぬさくらんぼ  天明さえ

 季題は「さくらんぼ」、「桜桃」である。虚子の〈茎右往左往菓子器のさくらんぼ〉は有名だが、「さくらんぼ」の実の大きさ、彩り、茎の長さと撓み、その全てを一枚のスケッチの中に収めて見事と言うほかに言葉がない。一方「桜桃」の語から太宰治の小説「桜桃」を心に思い描くと、「さくらんぼ」の対極にある「何とも言えない、生きること自体の悲しみ」がゆらゆらと立ち上ってくる。

 大きさと言い、色合いと言い、味わいと言い、愛されずにはいない「さくらんぼ」。それらを「手拍子」のように口に運んでは、種を吐き出す楽しい時間。二人で、三人で、四人で摘めば、会話も弾む。そして、つまり「ひとり食めば」・「さみしくなりぬ」は必然の結果なのであるが、誰の心の中にでもある、普段は気付かぬふりをして「跨いで」通る「心のクレバス」に落ち込んでしまったような時間がはっきり描かれていると思った。花鳥諷詠の俳句とは本人すら気付かぬうちに、恐ろしい真理を描くこともある。(本井 英)

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