月別アーカイブ: 2013年3月

東京吟行会がありました。英

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雨の自然教育園で、東京吟行会がありました。今年はとてつもない桜の早咲き。昨日の西行の日は既に満開、西行さんも喜ばれたことでしょう。今日の花冷えで満開はまだ続きます。今日は早く帰宅して、明日の四月号発送の準備をします。月内にはお手許に届きます。英

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.7」矢沢六平『天高し』~黙しざらざら~

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.7」矢沢六平『天高し』~黙しざらざら~

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 「夏潮第零句集シリーズ」の第2巻第7号は、矢沢六平さんの『天高し』。

 矢沢六平さんは昭和三十七年東京都新宿区生まれ。慶応義塾志木高校在学中に本井英に出会い師事、俳句の世界に入る。その後、出版社勤務、フリーランスの編集業などさまざまな職歴を経て、ルーツである信州諏訪に移住。現地で御柱祭に参加されるなど諏訪にどっぷり浸かられている。

 元から独特の鋭い感性をお持ちだが、その土地に住む人々の暮らしを季題を通じて切取る、ただ鋭く切取るのではなく深く広く切取られる、切取るというより耕して土を掘り起こすような句を詠まれる。地に足の着いた腰の重いどっしりとした俳句をこれからも見せていただきたい。

磐よけて小道ありけり枯木立 六平

→季題は「枯木立」。「磐」である、「岩」ではない。何かの鎮守の山なのであろうか。枯木立の中に細い小道があるが、その道は磐で塞がれているのである。もちろん必要なときは人が動かせる程度の「磐」なのであろうが、「磐」をわざわざ置いた人と理由があるわけで、宗教的な何かのいわれがあるのではないかと想像させられる。神寂びた枯木立の雰囲気が伝わってくる。

 

大鎌を腰だめで振る大夏野 六平

→季題は「夏野」。ご本人のことではないかと思う。汗を掻きながら一振り一振り夏野の草を買っていく。大夏野といってもカナダの大夏野ではない。カナダの大夏野であれば鎌を振ることなどせず、力づくで機械で草を刈ってしまう。鎌を振って草を刈ることが出来る程度の日本の信州の大夏野である。日本の夏は蒸し暑い。何故この人はこんなことをしているのか?色色と連想が広がる佳句である。

 

田の神に御柱四本草紅葉 六平

→季題は「草紅葉」。里の神社に御柱の小さなもの四本が祭ってある。そこの足元は早くも草紅葉しており収穫の季節が近いことを感じさせる。神社から見晴らすことが出来るであろう信州諏訪平野の田圃の様子が目に浮ぶ。

 

 六平さんは実にさまざまなタイプの俳句を詠むことができる。収穫の秋の季節が近づいてきたのではないか。早期の第一句集の刊行を期待して止まない。

その他、印をつけた句を以下に紹介したい。

銅像に人だかりして秋高し

大焚火煙草喫ふ者腕組む者

電線の長さのままに雪落ち来

飛魚のはなはだ遠く飛ぶもあり

ちりぢりに分かれて昼寝宿の者

夜濯ぎや湯宿の裏に寮ありて

梶の葉や二行で記す願ひ事

秋桜や明日まで臨時駐車場

夕暮を案山子担ひて帰りけり

石積みの上にぽっかり刈田かな

藁塚にまだ新しき革財布

(杉原 祐之記)

矢沢六平さんにインタビューをしました。

矢沢六平さん

矢沢六平さん

Q1:100句の内、ご自分にとって渾身の一句

A:飛魚のはなはだ遠く飛ぶもあり
  渾身というより、今日現在、一番気になっている句です。

Q2:100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

A:掲句のような、一見無内容に見えて、確かに何も内容が無いのだが、
何か手触りのようなものがある句。
 もしこの句が、俳句表現の(数ある)成功例のうちの一つたりうるのだ
としたら、今後こうした句を(総てではないにしろ)多く作ってみたい気
がいたします。
 それを作るのに必要な道具が「写生」であり、使い方のコツが「客観」
なのであろう。薄々そう考えております。

Q3:100句まとめた感想を一句で。

A:裏山に緑あるとき雪あるとき飼犬つれて行くが楽しき

 

 

矢沢六平『秋高し』鑑賞 (青木百舌鳥)

矢沢六平『秋高し』鑑賞 (青木百舌鳥)

 

 物見遊山の群集を左右に割って巨大な「本宮一之御柱」が曳かれてきた。もう3年ちかく前のことだが、今も鮮明に思い出される。歓声のなかラッパが鳴り響き、木遣りが高らかに唄われると掛け声をそろえて大綱が曳かれ、ついには御柱が動く。そのメド梃子の先に山吹色の装束を纏った矢沢六平さんの姿を見つけた。さぞや荒くれた形相をされているかと思って目を凝らしたが、山吹色のおんべを振る六平さんは実に和やかな笑顔をしていた。「すごい人だ」と感じた。

 その御柱祭の折、夏潮の東京組にご自宅を宿として提供してくださり、そのお蔭で僕らは御柱祭を安心して存分に楽しむことができた。夏潮会においては諏訪支部長でもあり、作者としても会のキーパーソンの一人である。行雲流水の風情を漂わせながらも、豊かで繊細な感性と人情味を持ち合わせた、不思議な魅力のある人だ。僕はその厚情に甘えてちょいちょい諏訪に立ち寄らせていただいている。

 

 

銅像に人だかりして秋高し  六平

 

 本句集巻頭の句であり、高校生の頃の作者がこの先の俳句人生を送るきっかけとなった句だという。待ち合わせ場所になるような銅像に、待ち合わせの人々がたかっていて、自分はその人々と距離を置いて銅像を眺めている。銅像の周りには色づき始めた樹々がさやぎ、空は青く、高い。作者はそれを眺めつつ、ゆったりとした気分で待人の現れるのを待っている。

 

沓石におむすびほどの雪だるま  六平

 

 「おむすびほど」としたことで、据えられた雪だるまの小ささと同時に、雪だるまをつくる手の動きも想像されてくる。子の手がつくったものか、または大人が子に作ってみせたものかも知れない。

 

赤いべべ着ておつくべや雛祭  六平

 

 幼子の雛祭。「おつくべ」とは正座のことだが、促されて「おつくべ」をする幼子と、それを微笑ましく見守っている大人らの気配がある。六平さんの句には方言が比較的多く用いられているが、鄙の言葉を採集するということではなく、日常の言葉として用いる姿勢が保たれており、一方で読み手から見て不可解になったり、方言の乱用と映らない、いい塩梅にその言葉が供されていて楽しい。

 

祝はれてアイスクリンが好物で  六平

 

 この句も同様だが、「アイスクリン」が方言なのかは知らない。ともかく「アイスクリン」と呼んでいるお婆ちゃんということで十分だろう。米寿だとか卒寿だとかのお祝いの席を詠んだ句。お祝いに集まった家族が、お婆ちゃんの身体を気づかったりしていることまで想像される。

発せられたままの生の言葉を大事に取り扱う姿勢は、句の登場人物たちを作者本人が愛していることに起因しているのだろうと思う。

 

猫の仔を鷲摑みしてよこしけり  六平

 

 そうこう会話した後、子猫をもらうことになった。数匹の子猫の中の、気に入ったその一匹を指さしたのかもしれない。「持ってきな。ほら」と鷲摑みにして子猫をよこされた。飼主と作者の、子猫に対する心のあり様のコントラストがよく見える句である。とはいえ作者に飼主を咎める気持ちは無く、それもまた面白い。

 

もう一人二人居るらし夜釣りびと  六平

 

 夏の夜、涼みがてらということで夜釣りに出向いた。水辺は予想以上に暗く、足元も覚束なかったが、人の姿が見え、その人の隣に竿を延べた。涼しいのは涼しいがちっとも釣れないねと隣の様子をうかがうと、やはり釣れていない。しばらくすると物音がした。釣れたのかなと隣を見るとそんな様子も無い。その向こうにも人がいたらしく、何やら気配がする。

 

漬茄子の潰されながら切られけり  六平

 

 「そうそう、そうだよね」と言いたくなる句。よく汁を含んだ漬茄子の艶、切られるときのじゅっという音、茄子の肉の断面などが思い浮かび、すぐさま飯を炊いて漬茄子で食べたくなる。私のような中年男にはたまらない風情で、「漬茄子」が直に感じられる。

 

藁塚にまだ新しき革財布  六平

 

 この句も質感のある句。嘱目だろう。作者には手触りのある句も多く、それを大切にしていることがうかがえる。

 

雨合羽脱いで涼しき大庇  六平

 

 蒸し暑さから開放された心地よさが、大庇の広がりとともに伝わってくる。雨に洗われた青葉の色も感じられるようで、爽快さがよく表現されている。

 

暑気中り奥の座敷の暗がりに  六平

 

 仲間の一人が、どうも具合が悪いと涼しい奥の座敷に横たわった。大したことないと言うので離れたが、ふり返ると座敷は暗がりとなっていて中の様子は見えない。その暗がりの中の人の身を案ずる心境がよく伝わってくる句。

 

なつかしき祖母の小言や柿熟るる  六平

 

 今はもういない祖母が元気であった頃からある柿の木を眺めているのだろう。枝に残されて垂れるままになっている熟柿を仰ぎながらの感慨。作者が幼少期にはその木に登ったりもしただろうと想像されてくる。

 

行秋や逢へばいささか老けてをり  六平

見送るや秋日の当たる肩背中  六平

 

 久しぶりに会った友人は、記憶にある顔よりいささか老けて見えた。自分自身も友人の目には老いて映っているのだろうか。話してみれば昔のままの友人である。そう感じながらお互いの人生の時間を大事にし、楽しもうとする姿勢が「行秋や」の感慨によく表れている。

 「見送るや」の句では、友人との楽しい時間が過ぎ、その友人を見送る作者の情が下五の「肩背中」の措辞からひしひしと感じられる。

 

 全編を通して作者・六平さんの人情味がよく伝わってきて、しみじみと良い句集だと感じた。読んでいると六平さんと会って話しているかのような感じさえある。

 第一句集の上梓を楽しみにしております。

富山に伺っています。英

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「夏潮」富山タイドプールの発会句会が、富山市の中心部、高志の国文学館で開かれました。庭内のそれはそれは美しい紅梅を囲んで句作に挑戦、句会を楽しみました。家族的な雰囲気の中での素晴らしいスタートでした。ご報告遅れましたが19日、四月号校了。月内にはお手許に届きます。英

矢沢六平 『秋高し』 鑑賞 _(永田泰三)

 矢沢六平 『秋高し』 鑑賞 

  私は、ことあるごとに英先生から、「もっと言葉をせめなさい」とお叱りを受ける。写生句とはただ単に、見たままを言葉にするわけではない。じっと見て、じっくりとせめた言葉で一句に仕上げるのである。六平さんの「秋高し」に納められているそれぞれの句は、英先生の教えに忠実につくられたお手本のような句だと思った。
  そして、決して情に流されていないそれぞれの句から、人にそして自然に対する六平さんのやさしさがにじみ出ているのは不思議である。

  
  石蕗の花皆この家で生まれけり
  季題は、石蕗で冬。肉厚の葉っぱに黄色の花をつける。虚子の句に「静かなる月日の庭や石蕗の花」があるが、古い日本家屋の庭には、よく植えられてをり、その家の歴史を感じる花である。
  この句は、そのような石蕗を見ていると、この家で生まれたひとりひとりのことが思い出され、ああ皆この家でうまれたんだなあとしみじみと感動を覚えた。石蕗は、ノスタルジックな気分へと誘ってくれる。

  入り交じり鴨鳰あまた湯宿裏
鴨も鳰もいずれも冬の季題。大柄な鴨の中に小柄な鳰が混じっている。湯宿の客が餌でもまくのだろう。安全な場所で安心しきった水鳥たちの様子はなんとも可愛らしい。

  出すものを見にくる猫と年用意
  季題は、年用意で冬。新年を迎えるための様々な用意である。猫は好奇心旺盛である。何かしていると近寄ってくる。そして、小さな箱や袋に無理矢理入り込んだりする。年用意の邪魔ばかりするのであるが、そんな猫と年を迎える準備をしている。

  大鎌を腰だめで振る大夏野
  飼料作りであろうか、大鎌を力一杯降っている。大夏野だから、ちんまり小さな鎌かってもらちがあかない。大胆に大鎌でずんずん降り進むのである。大自然の中の人間の営みに感動を覚えた。

  宿浴衣着てそれぞれに家族なる
  季題は、浴衣で夏。大きな旅館やホテルでは、大食堂に集まって食事をとる。それぞれ家族ごとにテーブルについて、隣のテーブルと会話するなどということはまずないが、みんなお揃いの宿浴衣をきている。そんな風景を冷静に考えれば滑稽でしかたがない。

長き夜のダンス教室窓の中
  季題は、夜長で秋。以前シャルウィダンスという映画があったが、駅近くのビルの窓にダンス教室とかかれている。作者は、秋の夜長にこうこうと電気をもらす教室を外から見ている。残念ながら、ダンスそのものをしている姿は見えない。下五の「窓の中」が見えない窓の中を想像させる。

秋の夜を祭で喧嘩せし人と
祭は、本気である。本気だから喧嘩にもなる。でも祭の席のことは気にしない。でも本気だから実は祭の後も本当のところは気にしているのである。そんな喧嘩相手と秋の夜を過ごすことになってしまった。さてどうしよう。

野菊まで小舟曳き上げられてある
  季題は野菊で秋。名前の通り野原に咲く菊である。川辺に咲いている野菊のところまで、小舟が曳きあげられて「ある」のだ。何気ない景色が的確な言葉で描写された潔い句である。

石蕗の花皆この家で生まれけり
リハビリの人水鳥を見て来しと
入り交じり鴨鳰あまた湯宿裏
出すものを見にくる猫と年用意
大釜を腰だめ振る大夏野
漬なすの潰されながら切られけり
宿浴衣着てそれぞれに家族なる
硝子戸のガラスに屋号心太
長き夜のダンス教室窓の中
秋の夜を祭で喧嘩せし人と
石積みの上にぽっかり刈田かな
野菊まで小舟曳き上げられてある

(永田泰三 記)