矢沢六平 『秋高し』 鑑賞
私は、ことあるごとに英先生から、「もっと言葉をせめなさい」とお叱りを受ける。写生句とはただ単に、見たままを言葉にするわけではない。じっと見て、じっくりとせめた言葉で一句に仕上げるのである。六平さんの「秋高し」に納められているそれぞれの句は、英先生の教えに忠実につくられたお手本のような句だと思った。
そして、決して情に流されていないそれぞれの句から、人にそして自然に対する六平さんのやさしさがにじみ出ているのは不思議である。
石蕗の花皆この家で生まれけり
季題は、石蕗で冬。肉厚の葉っぱに黄色の花をつける。虚子の句に「静かなる月日の庭や石蕗の花」があるが、古い日本家屋の庭には、よく植えられてをり、その家の歴史を感じる花である。
この句は、そのような石蕗を見ていると、この家で生まれたひとりひとりのことが思い出され、ああ皆この家でうまれたんだなあとしみじみと感動を覚えた。石蕗は、ノスタルジックな気分へと誘ってくれる。
入り交じり鴨鳰あまた湯宿裏
鴨も鳰もいずれも冬の季題。大柄な鴨の中に小柄な鳰が混じっている。湯宿の客が餌でもまくのだろう。安全な場所で安心しきった水鳥たちの様子はなんとも可愛らしい。
出すものを見にくる猫と年用意
季題は、年用意で冬。新年を迎えるための様々な用意である。猫は好奇心旺盛である。何かしていると近寄ってくる。そして、小さな箱や袋に無理矢理入り込んだりする。年用意の邪魔ばかりするのであるが、そんな猫と年を迎える準備をしている。
大鎌を腰だめで振る大夏野
飼料作りであろうか、大鎌を力一杯降っている。大夏野だから、ちんまり小さな鎌かってもらちがあかない。大胆に大鎌でずんずん降り進むのである。大自然の中の人間の営みに感動を覚えた。
宿浴衣着てそれぞれに家族なる
季題は、浴衣で夏。大きな旅館やホテルでは、大食堂に集まって食事をとる。それぞれ家族ごとにテーブルについて、隣のテーブルと会話するなどということはまずないが、みんなお揃いの宿浴衣をきている。そんな風景を冷静に考えれば滑稽でしかたがない。
長き夜のダンス教室窓の中
季題は、夜長で秋。以前シャルウィダンスという映画があったが、駅近くのビルの窓にダンス教室とかかれている。作者は、秋の夜長にこうこうと電気をもらす教室を外から見ている。残念ながら、ダンスそのものをしている姿は見えない。下五の「窓の中」が見えない窓の中を想像させる。
秋の夜を祭で喧嘩せし人と
祭は、本気である。本気だから喧嘩にもなる。でも祭の席のことは気にしない。でも本気だから実は祭の後も本当のところは気にしているのである。そんな喧嘩相手と秋の夜を過ごすことになってしまった。さてどうしよう。
野菊まで小舟曳き上げられてある
季題は野菊で秋。名前の通り野原に咲く菊である。川辺に咲いている野菊のところまで、小舟が曳きあげられて「ある」のだ。何気ない景色が的確な言葉で描写された潔い句である。
石蕗の花皆この家で生まれけり
リハビリの人水鳥を見て来しと
入り交じり鴨鳰あまた湯宿裏
出すものを見にくる猫と年用意
大釜を腰だめ振る大夏野
漬なすの潰されながら切られけり
宿浴衣着てそれぞれに家族なる
硝子戸のガラスに屋号心太
長き夜のダンス教室窓の中
秋の夜を祭で喧嘩せし人と
石積みの上にぽっかり刈田かな
野菊まで小舟曳き上げられてある
(永田泰三 記)