月別アーカイブ: 2012年10月

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.2」宇佐美美紀『日脚伸ぶ』~感性~

 「夏潮第零句集シリーズ」は第2巻第2号は、宇佐美(旧姓:今村)美紀さんの『日脚伸ぶ』。

 

 宇佐美美紀さんは昭和五十年熊本県生まれ。山本道子さんが経営されるレストランでソムリエールとして勤務されている折、「夏潮」が創刊され俳句に興味を持ち始め、湘南吟行会などに参加するようになられた。句集名の『日脚伸ぶ』は、新年会での本井英特選句の

夕方の開店準備日脚伸ぶ 美紀

から取られた模様。

 俳句のキャリアは4年強ということで、これまでの第零句集のメンバーの中でも句歴はぐんと浅いが、「序文」での山本道子さんの言葉通り、「ワインのプロ」「サーヴィスのプロ」としてその洗練された感覚に素直に従った詠みっぷりが新鮮である。思い切ったオノマトペも良いと思う。俳句ずれせず、どんどんご自分の感じられたリズムを表現していってもらいたい。また、破調句などにも挑戦してもらいたい。

 4年のキャリアであっても毎月コンスタントに句を詠まれているので、100句の中でその軌跡が充分確認できた。甘い句やただ事の句も含め、第一句集へ向けてのステップとしての区切りとして、4年強というのもちょうど良いのではないか思った。一区切りを付けて頂き更に新たな句を見せていただきたい。

除雪車の真つ赤な車体雪の駅 美紀

→季題は「除雪車」。この句は一般的には無駄の重なりがある。十七文字しかない俳句で、「除雪車」と「車体」、「除雪車」と「雪の駅」という重なりがある。詠んでいる景色は単純明快。

それでも不思議と惹かれた。中七の「真つ赤」が「真赤」でないことで「赤と白だけの世界」の印象がはっきりし、上記の言葉や季題の重複が気にならなくなった。一文字で俳句の印象ががらりと変る好例。

 

花埃客入る度に舞ひ込みて 美紀

→季題は「花埃」。美紀さんのことを一流レストランの優秀なソムリエールとして活躍されていることを知ると面白みが増す。「花埃」という「艶」よりも「俗」な季題、「客」という突き放した言い方から、自ずとどのような店構えであるかが想像される。桜の季節でお客さんも大変多いのでしょう。結構なことです。

蕾から出づる白玉梅の花

ぐらぐらと風に揺れをる松の芯

夕方の開店準備日脚伸ぶ

もつてりと熟れに熟れをる柿一つ

がつしりと実るトマトの青さかな

薄青く黒く黄色く茸かな

カーテンの激しくうねり大夕立

水仙の芽の小刀のごとく出で

夕暮に古巣の黒く浮びたる

手の届くほどに傾ぎて枇杷たわわ

 

 なお、美紀さんは10月14日に結婚披露宴を開かれたとのこと。大変おめでとうございます。準備などでご多忙であろうということで、インタビューは割愛した。替りにお祝いの一句を、お目汚し失礼。

 

 この上もなき美しき葡萄かな 祐之

 

(杉原 祐之記)

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第38回 (平成17年9月9日 席題 狗尾草・夕月夜)

狗尾草撫でて吾が家の恋しくなる

字余りを自在にお使いになるところはお上手になられたなと。「狗尾草撫でて吾が家の恋しさよ」でも、一句になりますね。その方が字余りにはならない。「(前略)恋しくなる」というと、若干プロセスが出てくる。撫でているうちに、だんだん、だんだん、自分の家が恋しく思われてきて、帰らなんいざという気持ちがしてきた。「恋しさよ」というと、ちょっと薄っぺらい感じがしますが、「恋しくなる」と字余りにしたことで、じわじわと里心がついた気分がよく出ているなと思って、そういうふうに字余りを確信犯的にお使いになるところは、大したものだと思いました。

台風の前の静けさ庭を掃く

真面目な主婦ですね。台風が来るのはわかっているんだけれども、ともかく今日は今日で、庭を掃いておきましょう。さてさて今度の台風で、この子達と言いたくなるような、庭の花や木がどれほど痛めつけられるか。可哀想なことだ。でも、大きな自然の前では仕方のないことだよと思って、花や木をなだめるように、朝の一時、庭を掃いてをった。ということで、いかにもやさしい主人公の面影が目に浮かぶようであります。

スニーカー露けき朝を迎へけり

ちょっと特殊な都会の句ですね。つまり真夏の朝は、むあーとしておよそ露けしという気分のしない都会の朝。朝、ウォーキングかなにかで、外へ出るんだけれども、スニーカーを履いても、何かもあっとした、夜のほてりがまだ残っているような、そんな朝が続いてをった。ある日、スニーカーを履いて外へ出たら、今までとはまったく違う朝で、あ、これを露けさと言うんだ。という朝であったということです。これは田舎にいると、わりと早く、八月のうちからするんですが、都会にいるとそういうことはなさそうで、ある日、がらっと秋になる。ある日、がらっと秋になった朝、ウォーキングに出ようとする主人公。と思うと、現代的なある場面を切り取って、なかなかにくいなと思います。

今しばしそぞろ歩きを夕月夜

ちょっと、「そぞろ歩きを」というところが、ことばがもう少し実のある言い回しがあってもいいかなという気がしたんですが…。もうちょっと歩いてみたいな。忙しい身をかこっているんだけれども、もうちょっと歩いてみたい。「そぞろ歩き」という言い方が少し形になってきているから、そこがむずかしいですね。採らない句の批評ってしないんだけれど、ちなみにふっと思い出したんで、「ゆきずりの子の」というのがありましたね。「ゆきずり」というのが、かえってニュアンスが出過ぎてしまう。「ゆきずり」は、もちろん辞書的にはすれ違うことなんだけれども、「ゆきずりの恋だよ」などというような台詞まで、つきまとってしまうから、ニュアンスが出過ぎてしまう。子どもでしょ。田舎の小学生がかならず教えられた通り言う「こんにちは」ですよね。「すれ違う」ですよね。「すれ違う子の挨拶やねこじゃらし」の方がすっきりする。元の句の「ゆきずりの子の挨拶や」だと、そんなこと何か意味深なことがあったのかい。ということになって、「ゆきずり」ということばの持っている、嫋々たるニュアンスがかえって邪魔するんですね。この「そぞろ歩き」も、若干気分が付いてしまっている。気分がついたことばというのは、余程、ぴったりならいいけれど、そうでないと、その気分で句が走ってしまうから、素朴な感じがしなくなってしまうんです。むずかしいところです。それが一種の軽みでもあります。素朴なことばを連ねることで、ある軽みが出るわけで、ことばの持っているべたついた感じがあるから、気をつけて使わないといけないんですね。

蜉蝣の影のごとくに番かな

うまいですね。ほやほやほやと飛んでいる感じで、よく見たら、二匹だった。最初は一匹だと思ったが、影のように寄り添ってをった。いかにも寂しい感じがして、蜉蝣の番というものを、またそこから人生を思いついてしまうような句ですね。

「こもろまん」の紹介。(管理人)

例年、「こもろ・日盛俳句祭」には、慶應義塾大学藤沢キャンパスの加藤文俊研究室の皆さんが参加し、運営のお手伝いを頂くとともに、「場のチカラプロジェクト」の一環として、「こもろまん」という「かわら版」を発行されています。

ちょっと時間が経ってしまいしたが、今年7月の俳句祭で発行された「こもろまん」に主宰の句帳のことが採り上げられていますので紹介します。