花鳥諷詠ドリル」カテゴリーアーカイブ

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第84回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

一村の跡や芽立ちの葦の原
さあ、これ、むずかしいです。旧谷中村といったって、どこだかわかりません。 僕のこの句からの連想では、ダムになってしまった村を感じますね。つまりダムが埋め立てられて、水底に村が沈んでしまって、ダムの水際のところはちょうど葦が生えてをって、ああ、ここは昔、谷中村といった一角なんだよ。というと、作者名を見ると、久々に社会派が出たという感じがしますね。ダムに沈んだ村でないと、葦の原が活きてこないように思えますね。
母の日を祝はるゝことふと寂し
これはあるんでしょうね。これはさっきの別の作者の句と似たようなことかもしれません。祝うことの充実感と祝われることのある年齢に達した加齢の寂しさみたいなものが詠まれているのかもしれません。どちらも同じような世界でありながら、それぞれの個性の違いの詠み方になって、面白いと思いますね。
一抱え程の朽ち木を藤の花
「朽ち木」なんていうと、社会派なんて言われてしまうけれど、実際には藤は林業やっている人から見ると、たいへんな敵で、山仕事をやっている人は、必ず山刀を持っていって、蔓の類いがあれば切って通る。それで森を守るんですね。藤に抱きしめられると、気持ちよさそうだけれど、実は木は死んでしまう。昔からそういうのがありますね。男が松で、女が藤で、抱きしめられてという歌謡がたくさんあります。最後には松なる男が枯死するところは、なかなか深いなあと。
草中にのの字の見えて夏蕨
これは夏蕨の感じがありますね。春の蕨だと、萌え出て、周りに何もないところに立っていますけれど、夏の蕨は草の中に隠れてる。逆に丈高い割に柔らかいんですよ。その辺りの事情がよくわかる。ただ、「のの字の見えて」のところが弱い。草中に夏蕨が見えた。あるいは草中の夏蕨を摘んだというようにした方がいい。「のの字が見えた」というところが損をしましたね。
支柱より細々とありトマト苗
これも先程説明したのと同じです。元の句、「トマト苗支柱より細し風揺らす」。 風のところが余計。支柱が割合に太いんだけれど、まだトマト苗は細々として、頼りないということでいい。頼りないということも言う必要はない。俳句の場合は。支えの棒よりもトマトの茎の方が細いというだけでいい。それ以上言うと、言い過ぎるという世界になってしまう。風なんか吹かさないでいいです。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第83回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

指先に蕗のあくつけ夕仕度
よき妻を見て、愛情に充ちて、お詠みになった句だろうと思います。たしかに蕗は扱っているうちに、あくが出てきて、指先に入ってしまう。よく詠めていると思います。
新緑や走り来る児の眼の清き
元の句、「新緑や走り寄る児の」。こういうことは単なることばの約束なんで、つまり「走り来る児」だと、こちらに向いてくる児を見て、眼が清いということがわかる。「走り寄る」というのは、自分の方に来るのではなく、第三者的に見ていて、眼が清いというのは頭で考えているだけで、嘘になる。「走り来る児」とすれば、この句が活きてくるということです。俳句会で、人に読んでもらう。そうすると自分は当たり前だと思っていたことが、人には通じない。自分では伝わると思っていたことが、人には伝わらない。だから、俳句会をやる意味があると思いますね。
王冠の空飛ぶごとく朴の花
これでいいんでしょうね。ひじょうに斬新な表現。「王冠の空飛ぶごとく」と言われてみれば、朴の花の豪華な感じは、そんな空想を思い描いても、不思議はないという感じはいたします。「王冠の空飛ぶごとし」とやると、どこかへ吹っ飛んでしまって、わけわからなくなってしまう。やはり、「ごとく」なんでしょうね。    
苗を待つ田に満つる水光るなり
これはちょっと手を入れ過ぎて、ごめんなさい。元の句、「苗を待つ田に満つ水面光るなり」。元の句で一番いけないのは、「水面」です。「田に満つ水面」というと、ごったらごったらしてしまう。田んぼは要らないかもしれませんよ。「苗を待つままに水面の光るなり」。掲句のようにすると、「満つる」と「光る」だと、うるさいですね。とにかく単純に作ることですね。
ピリピリと動く水輪や蝌蚪の池
これ、うまかったですね。作者の今日の句では、これが一番いいのかもしれませんね。まだ蝌蚪が小さい時に、大きくなるとひょろひょろ動くから、ぴりぴりとしません。生まれたばっかりのおたまじゃくしが全部が動くと、細かく揺れるんですね。それをピリピリと言ったことで、よっぽど小さいおたまじゃくしだということがよくわかる。ピリピリという擬態語がほんとうによく活きているということで、作者の今日の句で一番いいでしょう。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第82回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

主なきを知らぬふりして咲く牡丹
何か不幸があって、その家の庭に主ないことを知らぬように、牡丹が咲いておった。そう言えば、生前ここの主は、牡丹を自慢してをったことよ。「知らぬふりして」まで言ってしまうと表現としては味が濃いかもしれません。「知らざるままに咲く牡丹」ぐらいになさった方が、すんなり行くかもしれません。どの道、情の濃い句ですから、表現は若干すこしあっさりなさった方がいいかもしれません。
不調和につるの細々鉄線花
元の句、「不調和なつるの細さよ鉄線花」では、説明。「細さよ」という、大きな鉄線の花とつるが細いという不調和を見つけた作者の手柄が表面に出てしまっていて、諷詠になっていない。特にいけないのは「細さよ」と強調してしまっている。「不調和につるの細々」とすれば、それは表現になる。おわかりいただけますかね。「説明と表現、あるいは、説明と諷詠の違い」。それが大事ですね。
鐘楼に泰山木の花散れり
これはいい句ですね。こういう,いい表現でこようとするのでなくて、ある好ましい景を詠む。実に大切な世界で、これを忘れてしまうといけない。鐘楼があって、その近い所に泰山木がわさわさわさっと繁ってしまった。そこに大きく咲いた泰山木がぱらぱら散って、鐘楼の屋根にも積もる。ということだろうと思います。
夏蕨もてなす程の嵩もなく
これはもう全員が採ったような句ですから、解説の要もありません。ただ、先程の山荘の句と併せると面白いですね。夏蕨だわ。と採ったけれど、四五本。自分たちだけならいいけれど、お客様がいらしてお出しするには、あまりに少ない。ということで、とても素直にお作りになった句で、いやみがなくて、これがぽっとおできになるということは、俳句を作ってこられた至福ということができるでしょう。
母の日を祝ふことなく祝はれて
悲しい句ですね。今は母の日を祝いたくても、祝う母はいない。けれど、私は毎年祝われるんだ。私は祝われるよりも、祝っていた時の日々が、いかに充実した日々であったことか。といった、女の人の生涯のある時期の感慨といったものが、しみじみと伝わってくると思います。さらっと一気に言っている、表現もいいと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第81回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

雨降りの空の向うに初夏ありて
ひじょうに感覚的な句ですね。こういうの、いいと思いますね。なかなか初夏が来ない。待ち望んでいる初夏がなかなか来ない。今、雨が降っているんだけれども、その向こうにあるはずなんだ。という初夏を恋う気持ち。これはこれで面白いと思いますね。初夏と言うのは、今の五月頃になるんですかね。
山荘へ来し余録なる夏わらび
元の句「山荘へ来た余録なり」。「余録なり」と切ってしまうと、余録の方へ、興味の中心が行ってしまう。予期せぬご褒美が余録。自分は行きたくなかったんだけれど、家族が言うのでやって来た。思いもかけず、山荘の敷地の中に夏蕨が生えていて、しいて言うなら、余録というものだね。それが「山荘へ来た余録なり」だと、興味の中心が余録に行ってしまう。掲句のようにすると、「夏わらび」そのものが見えてくる。これも「余録なる」と連体形で結びつけて、一句の中心を「夏わらび」へ持っていかないと、つまらないことになってしまう。
栃の花咲きて連休始まれる
いかにも日本の栃の花の咲き様。ヨーロッパの栃だと、もう少し早く咲き出すかもしれないけれど、日本の栃だと、この頃。いかにも、連休が始まって、都会の栃の花の感じがしますね。誰も人がいなくなったという感じがするかもしれませんね。
山里の底に連々田が控へ
「レンレン」と言ってどうか、「つらつら」と言って、どうか。ただ面白いのは、山里と称していながら、実はある程度高い所に(五箇山とか、そう言う感じですが)村落があって、田んぼは大分下へ下がった所にある。山仕事と田仕事が混ざっているような山村。山里の底の方に若干の水田があって、それが控えているように見えた。というのは、面白いなと思いました。ただ、「田が控へ」だけで、季題になるかどうか。「連々植田あり」ぐらいにしておかないと,季題として「田が控へ」だけではむずかしいでしょうね。
海亀の卵を生むにもはらなる
一生懸命に卵を産んでいるというのを、冷静に「もっぱらだ」「専心」心を籠めて産んでいるという句で、これでいいと思います。ただ、元の句、「もはらなり」だと、ちょっと説明っぽくなってしまいますね。「もはらなる」にすると、もう一回叙述は海亀に戻るんですね。「卵を生むにもはらなる海亀よ」という勢いがあります。ですから、諷詠としては「もはらなる」になさった方が、余韻が出てくるやもしれません。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第80回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

無人駅降りる人なく昼蛙
優等生の句ですね。無駄がなくて俳句の内容と形が定量だという感じで、気持ちのいい、姿のいい句ですね。無人駅にふーっと行ったんでしょう。無人駅のあるような所だと、もしかすると単線で、駅ですれ違うことがよくありますね。そうすると、開いたまま、待っているというと、走っている音もしないし、ほとんど音もない。しゃべっているお客もいないような所だと、田んぼの昼蛙の声がくわっくわっとずっと聞こえている。そのうちまたブーンと音がして、単線の向こうから電車が来て、タブレットが交換されてなんていうような場面が存分に入っている。それだけの景色なんだけれども、その前後がよくわかる句。いかにも俳句らしいし、俳句という文芸ジャンルがこういう内容をもっとも得意としていると思いますね。
この花の箱根うつぎの名も好きで
「名も好きで」と言われると、さようでございますかということになってしまうんですけれど…。薄いピンクとクリーム色(白?)の咲き分けになっている。なかなか柔らかいトーンの花でいいんですけれど、それにまた「箱根うつぎ」という名前がついていることも好もしいということだろうと思います。主観をわざと前に出してしまう。それも一つの客観写生の手なんですね。
露地苺ルビーとなりぬ鍋の中
専門家がおられるので、解説しにくいんですが、露地でできた、若干酸味の強い小粒の苺を、ジャムにしようと、煮始めたんですかね。その時、スーっと透明感が出てきた。その瞬間をルビーというふうにおっしゃったんだと思います。火の入っていない時には、赤いけれど、透明感とは違う赤さだった。火が入ると、急に透明になってきた。あ、これは宝石のルビーの色なんだと気づかれたということだろうと思います。
屋敷林毎の花棕櫚高きかな
近年、屋敷林というのが、たいそう注目されております。どこにでもあるけれど、たとえば砺波平野とか、あの辺に行くと、屋敷林で全部囲まれて、季節風を塞ぎながら、いわゆる砺波の散居村なんていうのは、そんな景色ですね。元の句は「屋敷林毎に」でしたっけ?「毎に」になると、どこにもありましたというところに興味の中心がある。「毎の」になると、「高き」の方に興味がいく。高々と、点々と伸びた棕櫚。その先に黄色い花が目の前で在り処を得ている。という景色がいいたいのだから、「屋敷林毎に」では駄目です。これは単純にことばの技術の問題です。
花水木今宵の宿の丸木小屋
これも元の句、「今宵の宿は丸木小屋」。というと、昨日の宿は「露天風呂」。明日の宿は「シティーホテル」とか、変わっていく中での今日はということになる。変わっていく中での「今日は」というのは、この句の中心部ではない。この句の中心は「丸木小屋」のような、いわゆるコテージ風の宿だというところが言いたい。とすると、「今日は」と言って、「昨日は」「今日は」「明日は」というところに注意が散っては、もったいない。ですから、「は」なんて、絶対言ってはだめで、「今宵の宿の丸木小屋」とすれば、眼前に丸木小屋だけが見えている。ということで、「花水木」が効いてくる。「花水木」は日本の在来種の水木と違って、いわゆるドッグウッドで、数十年のうちにアメリカから大量に輸入されてきた花。そうすると、丸木小屋の、レゴハウス的な宿を建てる趣味。花水木を植える趣味。西洋風な佇まいで、お客に魅力を感じさせようという狙いが見えてきて、そこに今日は泊まるんだ。というと、近くに、針葉樹の森があったり、大きな湖があったり、フライの鱒釣りをしている人がいたりという景色が見えてくる。