第零句集(第一集)」カテゴリーアーカイブ

夏潮『第零句集』(第一集)の紹介です。

櫻井茂之『風ノ燕』鑑賞_(渡辺深雪)

 描写、言語表現、ポエジー、どれを取っても櫻井氏の俳句は一級品である。筆者もこの句集を読みながら、大変楽しませていただいた。同氏の句が持つ魅力について、これから一つずつ例を挙げながら論じて行きたい。

 

 まず櫻井氏の句で挙げられるのは、巧みな描写と表現である。

 

 隅々に余白のごとき雪残る 茂之

 冬雲の一塊にして光るなり

 

 地面の隅々に真白い雪が残っている様子は、なるほどページの所々に余白が出来ているのを連想させるし、「一塊」という表現も、冬雲のぎゅっと凝縮した固い感じを見事に表している。こうした巧みな言語表現の土台となっているのは、作者の優れた観察眼、と言うより句を作る上でものをよく見る姿勢である。

 

 秋の蚊やだらりと長き脚下げて 茂之

 ものの芽に雨の雫のとどまれる

 

 秋の蚊のよわよわしい様子も、雫を載せた木の芽のやわらかな感じも、細かな所まで蔑ろにせず言葉に表そうとする作者の姿勢がとらえたものである。小さな虫のだらりと下げた脚や、一粒の雫といった小さなものまで意識が行くことにより、句を味わい深いものにしているのだ。

 味わい深いと言えば、やはりその季語が使われている季節の気分というものをそのまま伝えるものが優れた句ということになる。櫻井氏の句もまた、その季節の気分が横溢しているものが多い。

 

 冬の海に測量船のとどまれる 茂之

 信号の赤の点りぬ小夜時雨

 

 冷たい海風に吹かれる測量船や、時雨降る闇の中に浮かぶ赤信号など、荒涼として物寂しい冬の情景と冷たくも静かな十一月の夜の有り様が目の前に浮かんで来るようである。

こうした季節の気分と共に、ある種の余韻というものが詩歌としての櫻井氏の句に見られる。

 

 六花ひとつ雫となりにけり     茂之

 わだつみのひとつかけらの浅蜊貝

 

 雫と消えた雪といい、春の海の小さな欠片となった浅蜊貝といい、前者の「けり」という止め方とも相まって読む者の心に静かな余韻を残すものである。だが題材の選び方が良いだけでは、このように余韻のある句を作ることはできないだろう。櫻井氏の句に情感をもたらしているのは、対象に対する共感とも言うべきものである。

 

 まだどこかこの世に慣れず赤とんぼ 茂之

 水に生まれ水を恋ふなる糸蜻蛉

 

 それぞれ種類は異なれど、とんぼというはかなげな生き物に対して感情移入のようなものが成されている。赤とんぼに対しては子の行く末を見守る親のような心情が見受けられるし、水の上を飛ぶ糸蜻蛉には、水を離れて生きることのできない生き物の一生に対する眼差しのようなものが感じられる。そこには「客観」という言葉の枠組みには収まり切らない、対象への強い思いを感じることができないだろうか。これこそが、櫻井氏の句作を根底から支えているものである。

 

強東風に絵馬からからと鳴りにけり 茂之

 大宰府天満宮での光景であろうか。正月に吊るした合格祈願の絵馬が、東からの風に吹かれ音を立てて鳴りだした。その時作者の頭には、祭神である菅原道真の「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花」の歌が浮かんだ。その東風が、境内に飾られた絵馬を揺らし、大きな音を立てさせたのである。かつて道真が失意の中見た春の情景とは対照的に、絵馬が「からからと」音を立てて鳴る光景には、何のしがらみも感じさせない明るさと新しい季節への純粋な喜びが感じられる。

 

 稲妻のあとに少しのきつねあめ 茂之

 季題は「稲妻」。秋の初めは大気が不安定で、昼の晴れ間から突然本降りに変わることも珍しくない。この日も一瞬ピカッと稲妻が走ったかと思えば、案の定空から雨粒が落ちて来た。すわ夕立か、と思えば相変わらず空は青く晴れ渡っている。いわゆる「狐の嫁入り」である。稲妻という一瞬の出来事を切り取った後に、「少しの」という形容詞が入ることで情景のコントラストが生まれ、かつ滑稽味のある句を作りだしている。

 

 秋天に灯台のあり登るなり 茂之

 青く晴れ渡った秋の空の下、白い灯台が一本立っているのが見えた。これだけでも青と白の二つの色のコントラストが鮮やかで、さわやかな秋の情景が見事に描き出されているのが判るだろう。これに「登る」という動作が加わることで、灯台を見た作者の胸の高鳴りや息づかいといったものが読む者に伝わって来る。この句を読むと、こちらの方まで高い空をめざして駆け上って行くような気分になるから不思議だ。

 

 棘ひとつひとつ紅かり冬薔薇 茂之

 花だけでなく、棘の紅さにまで視線が及んでいる所が秀逸。冬薔薇の紅さは、澄み切った周囲の空気とも相まって一層際立つものだが、さらに眼を凝らしてこれを見ると、鋭く尖った棘の一本一本まで紅く変色しているように見えた。これは細かな点までものを見る姿勢ができていなければ、見過ごしてしまうものであろう。触れる者を容赦なく刺す棘の形状と共に、その「ひとつひとつ」の紅さが冬薔薇の持つ研ぎ澄まされた印象をより強いものにしている。

 

 葉陰より残る桜の散りて来る 茂之

 美しかった桜の花も散り、青い葉をつけた夏の木に変り始めていた。青い葉は少しずつ生い茂り、周りに陰を作っている。すると、その陰の中から咲き残っていた桜の花びらが、作者の上に舞い落ちた。桜にとって、春はまだ終わっていなかったのだ。だがつつましく散る花を見て、作者はこれで本当に春が終わったのだと感じた。舞い散る桜の花びらに、去りゆく春への惜別の思いを託した一句。

 

 どんたくの朝の舞台を掃き清む 茂之

 福岡に住む人にとって、博多どんたくに寄せる思いは格別のものであろう。この祭に際して、街の至る所に演舞台が設置され、その上で様々な催しが行われる。この句に描かれているのは、この祭が始まる前の朝の光景である。一見、いつもと何の変わる所のない静かな朝のように思える。だが演舞台の上では、すでに役員とおぼしき者が祭に備えて掃き掃除を始めている。その姿を通じて、祭を前にした博多っ子の心の昂りのようなものが伝わって来る。

 

 機影はるけし八月の雲の中へ 茂之

 福岡から本州へ向かう旅客機の姿であろうか。遠く空を行く機影が、高くそびえる入道雲の中へ吸い込まれるように消えて行く。それだけのことを言っているに過ぎないのだが、「機影」と「八月」の組み合わせから終戦すなわち太平洋戦争を連想してしまうのは、筆者だけであろうか。かつて神風特攻隊の零戦も飛んだに違いない八月の空の機影に、特別な思いが託されているというのは、単なる思い込みにすぎないのであろうか。

 

 白梅をやはらかくする夕日かな 茂之

 梅は春の訪れを告げる花だ。もとより白い梅には柔らかなイメージがある。そしてこの花が咲く頃から、少しずつ日が沈むのが遅くなる。帰り道に咲いている白い梅を、その夕日が照らしている。「やはらか」なのは、この春の夕日であるはずなのだが、作者にはこれが白い梅の花を温め、柔らかいものにしているように感じられたのである。夕日の温かさと梅の花の感触を、読む側も感じることができる一句。

 

雛の灯を落とせば白き面輪かな 茂之

 宮中の婚礼をモデルとしているだけに、雛人形の顔立ちには何とも形容しがたい品格がある。華やいだ女の子の祭から離れてその顔を見ると、また違った印象を受けるのではないか。幼い娘たちのにぎやかなお祝い事も終わり、作者は雛段の灯を消した。するとその暗がりの中に、雛人形の白い顔が浮かび上って見えた。その白い顔は、ぼんぼりの灯に照らされていた時とは異なる表情を見せているようである。静かな情景の中に、非日常的な感覚と雛人形の雅な味わいが感じられる。

 

 鷹柱ほどけて空の残りけり 茂之

 ここで描かれている鷹は、一羽や二羽ではないはずだ。数十羽も群れなして飛ぶ鷹が、同じ方向をめざして天高く舞い上がって行く。その中で描かれた軌道が、あたかも天空に立てられた一本の柱のように見えた。だが鷹の群れが遠くへ去ると、軌道と共にその柱は消え、ただ青い空だけが広がっている。作者はこの情景を、「残りけり」という言葉で表し、余韻のある句を作り上げた。鷹の群れが去った後の、静かで大きな秋の景が見事に描かれている。

 

 他にもここでは拾いきれなかった様々な側面が、櫻井氏の俳句には見られるはずである。また同氏とお会いする機会があれば、俳句についていろいろ話を拝聴したい。

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.5」 櫻井茂之『風ノ燕』

「夏潮 第零句集シリーズ Vol.5」 櫻井茂之『風ノ燕』

 

 「夏潮第零句集シリーズ」。第5号は櫻井茂之さん。

茂之さんは、昭和四十一年福岡市生。地元の有名デパートに一度就職後、高校に職員として再就職。その高校で藤永貴之さんと出会い、職場句会を通じて俳句を本格的に始められたのは平成十七年。その後「夏潮」創刊に参加。昨年より編集委員として運営に参加いただいている。また、今年度の第三回黒潮賞を「五百羽余」で受賞。

黒潮賞の受賞作品からも分るとおり、本井英、藤永貴之から伝わるじっと季題を見つめ、描写する姿勢が身についている。更にそこに独自の感性から紡ぎ出した言葉を独りよがりにならないよう丁寧に読みこんで一句をなしている。結果として我々は茂之さんの俳句からは全面的な肯定性、向日性を感じることが出来る。

実に手の込んだ句の詠み振りである。物事の新奇性に頼らず、このような姿勢で俳句を詠んでいくことが我々にとって非常に大事なのであろう。

 

 末尾は切れ字、体言止めが殆んどを占めており、その点が百句を一定の平板なリズムで並んでいる印象を持った。これは、これで6年間で100句という、俳歴と句数のバランスから止むを得ないであろう。

 

やはらかき葉をかきわけて袋掛 茂之

 季題は「袋掛」。果実を外のものに食べられないよう守るため、一つ一つに袋を掛けていく。その様子を上五中七の様に詠った。何の果物であろうか、何れにせよ初夏の柔らかい日差しの下で光るように行われる袋掛けの光景が鮮やかに目に浮ぶ。

 

鮟鱇のどろりと箱に入れらるゝ 茂之

 季題は「鮟鱇」。鮟鱇という大きくてぬめぬめした魚の港での扱われ方を詠んだ一句。

 中七の「どろり」が眼目。対象をじっと見つめ浮んできた措辞であろう。誰もが納得できる一句ではないか。

 

『風ノ燕』抄 (杉原祐之選)

握り飯食うて涼しき風の中

秋霖に黒く濡れたる檜皮かな

温む水国土交通省管理

信号の三つの庇雪積める

夏潮に囲まれて国境の島

一塊を経木に包み鯨売る

競漕の舟の濡れたるまゝ積まれ

秋の蚊やだらりと長き脚下げて

河口暮れて白魚茶屋の灯せる

鷹柱ほどけて空の残りけり

 

(杉原祐之 記)




関係ブログ

俳諧師前北かおる http://maekitakaoru.blog100.fc2.com/blog-entry-787.html

 



櫻井茂之さんにインタビューしました。

櫻井茂之さん

Q:渾身の一句は?

A: 「機影はるけし八月の雲の中へ」私にしては格好良すぎる句ですがうっかりと生まれてしまった我が子です。


Q:100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込みは?

A: 100句目の「鷹柱ほどけて空の残りけり」は黒潮賞を頂いた20句へとリンクしています。
鷹の渡りを詠んだ時のようにこれからも足下の花や見上げる空を実直に詠んで行こうと思います。


Q:100句まとめた感想を一句で。

A:「初空やこんもりとある水城あと」茂之

町田優第零句集『いらっしゃい』を読む_稲垣秀俊

第零句集4号は町田優人さん(俳号 優)の『いらつしゃい』。町田さんは昭和62年、大学の一般教養で本井氏に出会い、その縁で俳句の世界に入られた。夏潮には平成19年から参加されている。

町田さんの俳句には底知れない不思議な感じがあり、その一部は音の操作に由来するものではないかと私は考える。以下に挙げるように、『いらつしゃい』には音量を絞ったように感じられる句がよく見られる。

              竜胆を一輪毎の喫茶店

              暑きこと京成の景屋根ばかり

              遠足のすぎて鎖場残りけり

              初空に敷き広げたる都会かな

              秋出水納屋に農具の下がりけり

これらの句は視点を工夫して、あるいは音のフェードアウトを用いて音の情報をカットし、読者の注意を季題に誘導しながら視覚的な印象を強めることに成功している。このような視覚情報と聴覚情報の制御が、独特な雰囲気をかもし出す装置の一つとなっているのではないだろうか。

一方で、音の操作に関係なく独自の世界を見せる句も多い。ここでは次の三句をとりあげる。

              いらつしゃいまたいらつしゃい芒原

季題は芒。生い茂った芒が風に吹かれる様子を、別れを惜しんで手を振っているかのように描写している。「いらつしゃい」という言葉の持つ暖かみが、やさしげな葉ずれの音や、芒原の日当たりの良さまでも想像させる。

              鰯雲裏山を越え来たりけり

季題は鰯雲。すっきりと晴れた空を見上げると、裏山の向こうから鰯雲が近づいてくる。すっかり秋である。出来事としてはそれだけだが、生活空間である裏山を配することで、季節の移り変わりに親しみを感じさせる。

              腹立てているかも知れずサングラス

季題はサングラス。口元から感情を推測できないという事から、相手はあまり親しくない人だと考えられる。サングラスのせいで表情が読めないのはよくあることだが、そこをなんとか推測しようとするところに可笑しみがある。

 

 

稲垣秀俊 記

対象への密着と自己凝視―藤永貴之句集『鍵』を読む_涼野海音(「火星」・「晨」)

 対象にクローズアップする写生を得意とする作家がいる。四Sの中では、「ひつぱれる絲まつすぐや甲蟲」の句で有名な高野素十。

 藤永氏もこのようなタイプの作家に属するのではないだろうか。それは次のような句からうかがえる。

  居並びてみな横顔の都鳥

 一瞬「あっ」と思わせられ同時に納得させられた一句である。季題に対する眼が養われていないと詠めない句であろう。大発見ばかりを詠むのが俳句ではない。

  波の端踏んで歩める恵方かな

 この句も先の句と同様に誰もが見逃しそうなところを詠んでいる。実作者としての経験から言えば、「波の端」という核となる表現に至るまでは苦労されたかもしれない。本句集の序文にあるように、やはり「季題の前にじっと佇んで」詠まれたのであろうか。

  夕立にちから加はり来たりけり

 掲句は「一物仕立」を十分に生かしている。上五から下五まで一気まで詠むことで、夕立が地を打つ迫力を再現している。

 さてこのような対象に密着する詠法は、自己凝視をして詠む姿勢にも通じているように思える。

  立冬と書くや白墨もて太く

 「書くや」・「白墨」・「太く」の「く」の響きが心地よい格調を漂わせている。それはいかにも「立冬」にふさわしく思えた。

  沈丁花鍵を取り出すとき匂ふ

 句集名の由来になっている一句である。跋で作者は語っている、「私は、いつも持ち歩いている鍵を、ふといとおしく思うことがある」と。日常生活への慈しみが、そこはかとなくにじみ出ている。

  春月やわれひとり下り田端駅

 田端駅というと、新宿や池袋などのターミナル駅より、こじんまりしている。そんな雰囲気と春月がマッチしている。作者は帰宅途中にふっと空を見上げたのであろう。

 最後になるが、他に鑑賞したかった句をあげる。

  家の灯の遠くに点り鶴の村

  菜の花に観世音寺の甍見ゆ

  エイプリルフール一日中ひとり

  鵯の声がさヽりて椿落つ

  母よりの暑中見舞の初めて来し

  さみだれやタクシーの待つ楽屋口

  踝のとんがりを蚊の刺しにけり

  男とも女とも見え秋の暮

  アスファルトに出てしまひたる葛の先

 

「非凡なる把握」―町田優人句集『いらっしゃい』を読む_涼野海音(「火星」・「晨」)

 以前、「トリビアの泉」という番組が流行った。トリビアルは些末なことにこだわること。俳句では、たとえば「欠伸猫の歯ぐきに浮ける蚤を見し 原月舟」のような句が、トリビアリズムの極みであろう。

 このような句の対極にあるのが町田優人氏の句である。季題の大胆な捉え方。これが『いらっしゃい』読後の第一印象であった。ここでは特に共感した句を紹介したい。

五月雨や闇夜どつしり身じろがず

「どつしり身じろがず」に、対象と向かい合うときの作者の心持ちも現れていよう。

顔中に霰あつめて滑降す

 単に霰が降るのではない。「霰あつめて」に作者の主体意識が感じられた。どこまでも一句中で主人公であろうとしている。

金といふ色の中にゐ酉の市

 「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒 堀葦男」という句を思い出した。「酉の市」の句は背景に具象があるので、イメージが膨らむ。

初空に敷き広げたる都会かな

 「神の視座」とでもいおうか、はるかなる高みで、まるで作者が都会を敷き広げているようだ。

蟲籠の乗り合はせたる夜行かな

 蟲籠という季題にすべてを託し、人物を描いていない。夜行列車に静かな時間が流れている。

いらつしゃいまたいらつしゃい芒原

 巧みな口語がリズミカルに繰り返されている一句である。私の深読みかもしれないが、揺れている芒の穂は、どことなく人間が手を振っているようにも見える。

赤ん坊をねかせるが如春の湖

 「如」を用いた句は本句集に五句あった。この句は上五・中七から下五への飛躍が特に素晴らしい。「赤ん坊」と「春の湖」はまず頭の中では結びつかない。「如」を挟むことで一気に景が広がった。おそらく作者は眼前の「春の湖」から直感的に把握したのであろう。

 このような非凡なる把握の仕方にぐんぐんと引き込まれた一冊であった。

(涼野海音 記)