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祐之 について

「夏潮」運営委員の杉原です。 平成二十二年四月に第一句集『先つぽへ』を出版

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.9」 原昇平『アスパラガス』~逃げない男~

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.9」 原昇平『アスパラガス』~逃げない男~

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 「夏潮第零句集シリーズ」の第2巻第9号は、原昇平さんの『アスパラガス』。

 原昇平さんは昭和五十三年埼玉県生まれ。慶応義塾志木高校の授業で本井英氏の授業を受講、俳句の道に誘われそれ以来本井英に師事。噂によると、先輩の原昌平氏と同音異字の名前と言うことで強く勧誘を受けたとも言われる。大学では、慶大俳句の代表を務められ、個性的な先輩、同輩、後輩をしっかりと統率し会を運営されてきた。

 「夏潮」創刊以来、出版業務での業務知識を活用して頂き編集部の要としてご尽力いただいている。少しでも接したことのある人であれば、氏の誠実で、謙虚で、そして任された仕事は100%のクオリティで成し遂げる意志の強さを認めざるを得ない。

 そう、昇平さんは一見の腰の低さと優しさと共に、決して逃げない強い心を持っていらっしゃるのである。そのような、原さんの性格はこの100句にも現れている。己の主観に素直に、季題を通じて何事かを、決して奇を衒うわけではなく、沈着冷静に五七五の詩形を通じて表現されているのだと思う。

 これからも、そんな昇平さんはご自分で御自分のペースを勘案しつつ、着実に御自分の俳句を積み重ねていくことだと思う。

嘘つけば嘘の数だけ蛇苺 昇平

→季題は「蛇苺」。昇平さんにとっては珍しく観念が前面に出た句である。この「蛇苺」は名前こそ恐ろしいが、小さくて粒粒している実。社会人として暮していく中で、止むに止まれず嘘をつくことは多々あり、その嘘に嘘を重ねなければならない苦しさは誰もが体験しているであろう。沈着冷静で誠実で逃げることの出来ない昇平さんは、その苦みを蛇苺に託し表現した。蛇苺をかむとぷちっと赤い汁が飛び散り、服が汚れてしまったことも多々ある。

その時の御自分の主観が、写生を通じ季題「蛇苺」とピッタシ重なったときに出来た功句。

 

休講の屋上におり雲の峰 昇平

→季題は「雲の峰」。学生時代の回想の句であろうか。学生時代、高校、大学問わず休講と言うのは、何とも言えぬ開放感を伴ったものであった。筆者も昇平さんと同じ高校大学に通学していたので、その経験から下記の通り類推する。

その学校に少なからずある休講。その機会に校外に出て一日をそのまま校外実習に当てるものもをするもの少なくなかった。その後の時間に授業がある限りその義務を果たすべきと考える昇平さんは、そのような人のことはさておきリフレッシュするために屋上に上ったのである。校舎の屋上へ上る階段には物が置かれており薄暗く、秘密めいたものがあった。その階段を上った先の屋上には大きな雲の峰があった。そこで10-15分リフレッシュし、ご自分の次の授業の準備のみならず、校外実習に出て帰らない同窓生のために工作をする昇平さんの姿が想像される。

季題「雲の峰」が効果的に現在から回想へと読者を誘導してくれている。

 

真白なる皿に残りし梨の水 昇平

→季題は「梨」。掲句は確か昇平さんが「夏潮」で初巻頭を飾られた時の句だと認識している。

残っている梨の水と白い皿。眼前のものだけを描くことで、それまでの食べている光景を全て省略することに成功している。私は若い夫婦の休みの日の朝食の光景を想像した。「梨」という豊潤な果物から溢れ出た水の瑞々しさが眩しい。この句も誠実、沈着冷静な昇平さんならではの一句。

 

その他、印をつけた句を以下に紹介したい。

 

木蓮の白さばかりが雨の中

空蝉の脚の一本欠けてをり

嘘ついて四月一日始まりぬ

潰れたる柿のぬらりとしてをりぬ

アネモネの芯の黒きに触るゝ指

底紅の底に残りし雨滴かな

ブラウン管越しの男の赤い羽根

晴るゝの日の少なくなりて神の留守

狛犬の脚に冬日の温みかな

寒鯉の水面に触るゝことのなく

アスパラの穂先で空に落書す

 (杉原 祐之記)

 

Mr. Shouhei Hara

Mr. Shouhei Hara

原昇平さんにインタビューを行いました。

Q1;100句の内、ご自分にとって渾身の一句

  →アスパラの穂先で空に落書きす

渾身というのではありませんが、句集名のもとになった句でもあり、

大事にしている句の1つです。

 

Q2;100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

→「花」の句はもちろんですが、もう少し「鳥」の句も詠んでいきたいと思っています。

 

Q3;100句まとめた感想を一句で。

→一つ摘み一つ捨てては蛇苺

『アスパラガス』読後感 (矢沢六平)

   第零句集『アスパラガス』を読んで

 快感俳句を読む快感

                   矢沢六平

 

木蓮の白さばかりが雨の中

 本井先生の序文によれば、この句は作者が高校生の時の作という。さぞかし驚かれたことだろう。端正で、立姿のすっきりと美しい、名優を見るかのような俳句である。

 これを、高校生が作ったなんて…。

 

 ただ端正なばかりではない。この句の真骨頂は『集中力』にある。

 雨模様という大きな景があり、その中の花咲く木蓮の木一点に、グーッとフォーカスが絞られていくことで、白さが際立った。際立たせることで、読者に強い印象を残すことに成功しているのだ。

 

 こうした、ある一点に「焦点を集めていける」集中力は、慶大俳句研究会の伝統であるのかもしれない。出身者の俳句にしばしば見られる特長で、文学的な俳句(人事ばかり詠むという意味で)一本槍の私などには、到底真似することができない。

 王道であり、研鑽の賜物であると思う。

 

 夏潮誌上で見て、ながく私の心に残る句があった。

 白い皿の上に(透明な)梨の水だけが残っている、という俳句だ。作者はもちろん、昇平さんであった。

真白なる皿に残りし梨の水

 白の上にわずかに残る透明に視線を集中させていくという、『フォーカス力』が、いかんなく発揮されている。印象的で、なんとも感じのある名句に仕上がった。

 

 写真の撮り方のひとつに、「ナメル」というのがある。

 ○○越しに撮る、ということで、その物体の先にある被写体をよりいっそう印象づける手法だが、言うなれば…

ブラウン管越しの男の赤い羽根

 という俳句が、ほぼこれに等しい。

 ある男の胸に付けられた赤い羽根に気が付いた時、それをテレビ画面の中に置くことで、視線が集中する効果を生み、きわめて印象的な「赤」になるわけである。

 

 ナメルのは、露出やら焦点距離やら、いろいろな適正値を算出した上で撮らなくてはならないので、素人にはなかなか難しい撮影方法の一つだ。

 次の句に注目してほしい。

 「指」を出してきたところが凄い。カメラでいうところの、「絞り」の役割を果たしているのだと思う。

アネモネの芯の黒きに触るる指

 

 指の先にアネモネを配置したことで、私たちの視線は、芯の黒へぎゅう〜っと集中していく。

 カメラのファインダーを覗いて、レンズリングを回していくと、やがてピントが合い、ぼやけていた画面がクッキリと像を結ぶ。あの『快感』が、この俳句にはある!

 花弁の赤と蕊の黒…。指…。蠱惑的、という以外の言葉を思い付かない。

 句集中、随一を挙げるなら、ぜひともこの句としたい。

 

 久々に「秒殺」されました。私の完敗です。

 私に、「ピントが合う快感」を堪能させてくれた句を書き写して、筆を擱くことと致します。謝々。

 

木犀の花降るところ土黒し

飛石に零れて軽し百日紅

緑陰の鉄棒の端錆びてをり

青梅の転がる先の青梅かな

ためらひの鋏を入れて鶏頭花

酉の市のおかめの頬にひそと影

水面に桜の像の結ばれぬ

花屑を転がす風の絶ゆるなく

鉄塔の尖の刺される冬の空

狛犬の脚に冬日の温みかな

アスパラの穂先で空に落書きす

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.8」石神主水『神の峰』~ちよと甘めに~

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.8」石神主水『神の峰』~ちよと甘めに~

 「夏潮第零句集シリーズ」の第2巻第8号は、石神主水さんの『神の峰』。

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 石神主水さんは昭和四十八年千葉県鎌ヶ谷市生まれ。大きな梨畑に囲まれて過されてきた。慶応義塾大学入学後、俳句研究会に入会。代表などを務める。学業も考古学を専攻し、現在はその道のスペシャリストとして知る人ぞ知る学者であられる。慶應義塾大学には博士課程まで所属していたこともあり、幅広い世代の後輩の面倒を見てこられた。私もその面倒を見て頂いた一人である。

 私は常々主水さんからしっかりものを見ることの大切さを教わってきた。それは考古学というまさに時空を越えた「もの」を扱う分野を志す学者としての視点であろうか。その一で大変ロマンティックな輝かしいような、甘いような句も多い。しかしながら、それらの句の多くは甘くなり過ぎないよう抑制されている。それは何故なら、季題の斡旋が的確であり、一区の中でその重みを失っていないからであろう。

 主水さんはキャリアの中で、本井英のほかにも、高木晴子氏、高田風人子氏などにも師事しており、その教えの中で個性を発揮されているのだろう。

下闇の先ゆく君の腕白し 主水

→季題は「下闇」。「君」とは彼女であろう。主水さんの俳句には「君」が頻出する。この句は甘いだろうか、確かに甘い。しかしながら、「下闇」という周りが明るいからこそいっそう暗く感じる場所、そこに浮かぶ女性の腕の白さということで、何とも言えぬエロティシズムを表現することに成功している。

 

店じゆうがイルカ見にゆき春の潮 主水

→季題は「春の潮」。この句もエロティシズムを感じる。特に上五の「店じゆうが」にである。「春の海」ではなく、「春潮」にイルカという可愛らしく知的な哺乳類が泳いでいる。ただ漂っているのではなく、イルカは海面を跳ねたりしかなり動きがある。そんな愛らしいイルカを見に他のお客が出払ったお店に二人だけ残った「僕」と「君」。

 

枯芝のベロアの如き起伏かな 主水

→季題は「枯芝」。ベロアはVelour と呼ばれるビロードに似た毛皮の素材。枯芝の丘に冬日が差し込んできてる。その日差しは角度があり、枯芝の丘の起伏を艶々と照らしている。この句もそこはかとなきエロティシズムが存在している。

 

 御伴侶やご子息も得られ、学業でもご多忙な用であろうが、句作のペースを保ち早期の第一句集の刊行を心待ちにしたい。

その他、印をつけた句を以下に紹介したい。

 

負け蛍ぽつりと一つ葉ごもりす

大根の干され始めの白さかな

梅の香のわつと山門ぬけて来し

永き日の磨きこまれし廊下かな

春浅し発掘現場砂嵐

幸せな恋などなくて業平忌

芝区てふ表示のありて四葩かな

大花野行けば誰かに逢へさうな

枯芝のベロアの如き起伏かな

自炊部に野太きつららありにけり

西の空見る蚕豆のゆでるまで

長き眉引きさめざめと泣く師走

古伊万里のかけら打ち寄せ春浅し

山眠るけもののごとき肌もて

湖に向く村の惣墓班雪

神の峰霧生れてまた霧生れて

(杉原 祐之記)

 

石神主水さんにインタビューを行いました。

Mr. Mondo Ishigami

Mr. Mondo Ishigami

Q1;100句の内、ご自分にとって渾身の一句

  →雛くるむ古新聞の昭和かな

  渾身というか、明治・大正と来て、ついに昭和も遠くなったなぁと思うと感慨深

い句です。

 

Q2;100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

→第一句集の刊行。。。還暦くらいかねぇ()

 

Q3;100句まとめた感想を一句で。

→春風に新しき歩を踏み出して 主水

 

石神主水『神の峰』鑑賞 (渡辺深雪)

石神主水『神の峰』鑑賞 (渡辺深雪)

 

筆者と石神氏との出会いは古い。同氏の句作に対する姿勢から、筆者は多くのことを学ばせていただいた。その姿勢は、以下の句にも表れている。

 

永き日の磨きこまれし廊下かな  主水

朝涼のロッジの窓を開け放ち

 

 いずれも季題の持つ気分がよく伝わり、景の見える句となっている。このように石神氏の作る句は、客観写生の理想とも言える形を我々に示してくれる。

 

 ところが、同氏の句にはこの客観写生という枠組みにおさまり切らないものも多い。

 

幸せな恋などなくて業平忌    主水

春風のやうな別れでありにけり

 

 季題を生かし、景が見えるように作っているだけではない。心の中からほとばしるものをこれらの句はそのまま詠みあげているのだ。こうした思いの強さが、実は俳句に生命を吹き込むものではないか、と考えさせられる。

 

 この一見相反する二つの要素が互いに作用し合い、そこから次のようなドラマ性のある句が生み出される。

 

ろうばいの林は夢のごとひらけ 主水

弾痕の激しき保塁秋の雨

 

 日本の詩歌が持つ本質のようなものを、石神氏の句は垣間見させてくれる。本業である考古学の研究と共に、同氏の句作のさらなる深化に期待したい。

 

 

てらてらとおかめの顔や酉の市 主水

 「てらてら」という擬音の使い方が上手い。おかめの面を露店の灯が照らす様子を見事に表しており、なおかつお面のつるりとした触感まで伝えている。安っぽい光に浮かぶ、少し間の抜けたおかめの顔は、この行事が江戸の庶民の楽しみであったことを思い起こさせる。

 

やすらぎといふ紅茶買ふ寒さかな 主水

 「やすらぎ」とは、紅茶の商品名なのだろう。作者はその名前にひかれて買ったのだが、この言葉からはかえって冬の厳しい寒さや殺伐とした情景などが想像できる。作者は熱い紅茶を飲んで、文字通り心の安らぎを得ようとしていたのではなかろうか。ひとつの商品に籠められた思いが、句に奥行きを与えている。

 

雛くるむ古新聞の昭和かな 主水

 親の代に買ったとおぼしき雛人形を、古い新聞が包んでいる。これをめくろうとすると、ふと日付に「昭和」と書いてあるのが眼に入った。記事には「ソ連」という今はなき国名も記されていたのだろうか。人形を囲んだ人々の温もりと記憶が、色あせた新聞紙から伝わって来る気がする。

 

キャンパスのなか風薫る君たてば 主水

 「風薫る」は夏の季題。句中に登場する「君」は女性であろうと思われる。校庭のベンチからこの女性が立ち上がろうとすると、そこへ柔らかな風が吹いた。初夏の明るい情景が似合う人なのだろう。薫風に吹かれて立つその姿が、いかにも若々しくて素敵だなと作者は思った。季題を通じて、青春の景を鮮やかに描き出している所が心憎い。

 

落人の湯のとめどなき秋の草 主水

 季題である「秋の草」から、何となく山奥のひなびた温泉が想像できる。昔、残党狩りを逃れた落武者がここで戦の傷を癒したのだと、作者は言い伝えから聞いた。今では、落人の浸かった湯だけが草の合間にこんこんと湧いている。秋草の生える情景が、落人の伝説とも重なって何とも物悲しい。

 

大吉のみくじ頼りの今朝の春 主水

 季題は「今朝の春」。年が明けて、初詣に来た作者は、おみくじを引いて新しい年の運勢を占おうとしている。だが、それにしても「頼り」という表現が気になる。作者は前の年から悩むことがあって、すがる思いで詣でたのではないか。そう考えると、「大吉」という言葉に新年への切なる思いが籠められているのが分かる。

 

夜濯の音を聞きつつ旅寝かな 主水

 真夏の旅先での光景。民宿とおぼしき滞在先での夜もふけて、作者は床に着いた。すると外の暗がりの中から、じゃぶじゃぶと何かを水で洗う音が聞こえた。どうやらこの家の誰かが、昼の暑さを避けて洗い物をしているらしい。この水音を聞きながら、何とも風情があっていいなと、作者は思った。静かな旅の味わいが、水音を通じて感じられる。

石神主水 第零句集『神の峰』鑑賞(磯田和子)

石神主水 第零句集『神の峰』鑑賞(磯田和子)

 

夏潮誌上に連載中の『時を掘る』を毎月楽しみに拝読しております。

季題になっている古い慣習や、私たちの生活に欠かせないが今や古くなってしまった物、それらにまつわる話が興味深く書かれており、つい引き込まれて読んでしまいます。

考古学者でいらっしゃる主水さん。発掘作業を通して古い時代のさまざまな物と出会っておられるのでしょうか。研究者の目で見て感じた世界を詠まれた句などもあるのでしょうか。『神の峰』という題名にも興味が湧きます。さっそく読み進み、魅かれた句をいくつか挙げてみたいと思います。

 

 

爽やかにふりかへらずに生きたくて

 

秋の澄みきった大気のなか、身も心も健康で明日への希望に満ち溢れている青年の姿が見えるよう。爽やかとは晴れ晴れとした彼の心持である。これから歩いて行く人生を悔いの無いものにしたいと、声高ではなくさりげなく宣言している一句。

 

 

心あてにバレンタインの予定あけ

 

キリスト教の司祭にまつわる記念日が、日本では女性から男性へチョコレートを贈る日としてすっかり定着したバレンタインデー。今や意中の男性へ思いを打ち明けるというものばかりではなく、義理やら友情やらさまざまあって、特に若い女性の間では早春の一大行事となっている。

さて掲句、若い男性が意中の彼女からの「本命チョコ」を期待してその日の予定を開けたという。心あてに待っている彼の気持ちが何だかいじらしく感じられて。さて、結果は如何に。

 

 

病窓の日のやはらかに蕗の薹

 

春の初めいち早く大地に黄色い花芽を出す蕗の薹。長かった冬が終わり、療養中の窓辺へやわらかな早春の光が射し込んでいる。そこから見える庭や近くの畦道には蕗の薹が顔を覗かせて春の訪れを告げている。春は生気が満ちて来る季節。やわらかな日差しが日一日と強くなるにつれ、病も確実に癒えてゆくだろう。蕗の薹が明るい予感をもたらしてくれるかのよう。

 

 

下闇の先行く君の腕白し 

 

何人かで明るい日差しの下を歩いていたのが、急に薄暗い下闇の中へと入った。鬱蒼とした木立の下をずんずんと先へ歩いて行く君。薄暗い中ノースリーブから覗く腕の白さが一層際立って見える。君の素肌を意識して少しくドキッとしたのかも。

 

 

宮南池訪えば柳の風涼し

 

宮南池は韓国の百済時代の遺跡にある人工池。日本書紀にもその造形技術の記載があるとか。この句と前後の句は韓国で詠まれたもの。研究の為、暑い季節に彼の地を訪れたのだろうか。池の傍の柳を揺らす風が涼しいことよと。「涼し」は宮南池への挨拶でもある。

 

 

さて、次の三句、何かしら心穏やかならざる事がおありだったよう。

 

あてどころなき怒りもて熱燗を

 

持って行き場の無い怒りを抱いた胸に、熱燗の一杯はさぞや沁み渡ったたことであろう。

 

 

やすらぎといふ紅茶買ふ寒さかな

 

紅茶の銘が「やすらぎ」とは。暖かい部屋でいただけばほっとした気分にもなるだろうと思わず買い求める。心が寒い日。

 

 

この心見ぬかれぬやう懐手

 

心のうちに抱いているのは何かしらの企み、それとも相手を嫌悪する気持ちであろうか。見ぬかれまいと身構えるように思わず懐手をしたのだ。

 

 

木の芽吹く雑木に君のかくれてゐ

うち寄せる春潮おしやべりなほどに

 

木の芽、春潮、春の季題が恋心を詠っている。二人の幸せな時間。

 

 

でも、

幸せな恋などなくて業平忌

 

伊勢物語の昔から、上手くいく恋なんて恋じゃない。

 

 

雛くるむ古新聞の昭和かな

 

平成の世になってからもう随分と経つ。昭和の新聞にくるまれた雛はすっかり「古雛」なのであろう。

ところで掲句、雛を飾ろうとして包んであった古新聞が昭和のものと気づいたのだろうか。それとも雛納めのために古新聞に包んでいるところなのだろうか。

 

 

梅の香のわつと山門ぬけて来し

窓ごしの月光に手をかざしてゐ

はくれんの咲き初め夕べ長きこと

水鳥のからくりのごと泳ぎ出す

冬の雨ふいに激しくなることも

踊り子の越えし隧道木の芽風

がたぴしと二両編成山笑ふ

古伊万里のかけら打ち寄せ春浅し

ダリア咲く獄舎の庭や風渉る

 

 

神の峰霧生れてまた霧生れて

 

跋文によれば句集の題名にもなった掲句は結婚式を挙げられた上高地で詠まれたものとか。

上高地から望む穂高岳はまさしく神の峰である。その峰に霧が次々と生れては立ち昇って行く様子はまるで、二人の前途に幸多かれと山の神々が祝福しているかのようである。

 

 

以上、第零句集「神の峰」を読ませていただきました。

“考古学者イコールお堅い”という私の勝手な思い込みとは裏腹に、句柄は甘美で柔らかく、季題を優しく捉えて詠まれており、読み終えて今こころよい余韻にひたっております。

(磯田和子 記)