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水に散る一人の影や蜆舟   辻梓渕

 季題は「蜆舟」、「蜆」の傍題である。蜆は極々浅い内海、河川、湖沼などで採る。多くの場合「鋤簾」と呼ばれる道具で、舟の上から海底を探ったり、ときには舟を降りて水中に立ち込んで探ったりする。

 この句の場合は、舟を降りて「鋤簾」を揮っているようである。表現上の一句の眼目は「水に散る」「影」。もちろん「影」の主は「漁師」である。腰ぐらいまで、水に立ち込んだ漁師の姿が「ちりぢり」になって水面に映っている様子を詠んでいるのである。「映る」としないで「散る」とした処に作者の工夫があるのは言うまでもない。

 まるでフランス印象派の絵画のように、水面に散らばった「色の断片」を見るような表現だが、いかにも「一人」の、しかも殆ど音を立てない「漁師」の仕事のあらましが見えてきて、「絵」として好もしい。

 我々の俳句は、なるべくなら地味で落ち着いた表現の奥に、佳き読者のみが洞察できる、ヴィヴィッドな世界が展開しているのが理想だが、たまにはこの句のように、やや派手で、人目を惹く表現も悪くはない。作者の顔が見えるような「自慢げ」な表現ではないからである。(本井 英)

雑詠(2018年7月号)

水に散る一人の影や蜆舟                         辻 梓渕
梅の寺多摩の横山指呼にして
鐘楼の棕梠の橦木のあたたかし
地図に載る大きな中州水温む

妻の髪娘の髪に落花かな        原 昌平
江ノ電の谷底行くや山笑ふ       岩本桂子
お見合の席とは知らず雛の間      井上 基
句は淡く句評は濃ゆく梅日和      杉原祐之

主宰近詠(2018年7月号)

旅愁さらなる  本井英

惜春の旅にあり鶏鳴も聞き

芥川荘と(ナヅ)けて籘寝椅子

熊蜂の宙を領して唸りやまず

行く春の笯をあらためてまた(イケ)神饌田(ミ ケ タ)なる代田の水の澄みわたり




選挙カーの声の遠さに夕桜

橋桁をくぐり遊びてつばくらめ

雉啼けば旅愁さらなる朝の窓

朝餉まで躑躅の庭をたもとほり

小綬鶏のさらに遠くで雉の啼く




青蘆の侵入したる売地かな

初心者は初心者向きの波に乗り

乗りくだる崩れはじめてをる波を

サーファーのもんどり打つは常のこと

棲みつきしサーファーの庭芥子の花




気取りなく広き宿庭野蒜生ひ

逗留の日々紫蘭咲き増ゆる日々

紫陽花は対の若葉をうち重ね

河口なる弘法麦の穂ぞ青き

癒えてゆく暮らし日焼けも少しせし

課題句(2018年6月号)

「網戸」     前北かおる選

網戸より山の冷気の自づから			町田良
潮風と潮騒入るる網戸かな

戸を寄せて川風網戸より入るる			木下典子
三線(サンシン)の音の聞こえ来る網戸かな	冨田いづみ
遠ざかり色の薄まる網戸かな			梅岡礼子
灯を消して網戸の風をほしいまま		常松ひろし					

海風はいつも冷たし花楝   藤永貴之

 季題は「楝の花」。初夏、独特の淡紫色の花を付け、遠くからでもそれと判る。さて、一句の眼目は「海風はいつも冷たし」。ここには、筆者の住む湘南の海とは明らかに異なる「海」が詠まれている。たとえば〈浪音の由比ヶ浜より初電車 虚子〉という句の場合、鎌倉で「浪音」がするということは、「海風」が吹いているということ。そのことは即ち「南風」が吹いているということで、真冬に限らず「南風」は常に温かい。即ち、「浪音」の句は、正月らしからざる「暖かさ」を背景にした句ということになるのである。つまり逗子・鎌倉といった南に開けた海を持つ地域では、およそ同じ傾向となる。一方、海が北にある場合は、これが正反対なのである。富山湾でも博多湾でも海から吹く風は必ず「北風」。そして、ほとんどの場合「冷たい風」となってくる。ことに「楝の花」の咲く初夏には、一層「冷たし」の感覚が強いのであろう。ところで、いま筆者が縷々述べたようなことを作者は考えて作句したのではなかろう。作者は「実感」を詠まれただけ。そこにこそ「花鳥諷詠・客観写生」の真髄があるのだと思う。俳句は「伝えるもの」ではないのである。(本井 英)