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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第68回 (平成18年2月10日 席題 実朝忌・片栗の花)

極小に芽生えいろいろ春隣
元の句、「ごく小さき芽生えいろいろ春隣」。季題は「春隣」で、冬の季題です。「芽生え」とか、「もの芽」とか、「ものの芽」、「名草の芽」とか、芽に関する春の季題はたくさんございます。従って、「芽生え」と言ったら、春の季題になってしまいますね。敢えて、「春隣」と言ったところに、ごくごく小さい芽が、それでももう見えているんだというところに、観察の面白さがあるんだと思います。ところが、原句の「ごく小さき」とか「ごく小さく」とか言ってしまうと、そのまま、ことばで説明してしまっている。それを言うよりは、「極小に芽生え」と言った方が、ずっとそこには詩がある。「ごく小さき」と言うと、「ねー、ねー、聞いて。」「あのね、小さいのよ。小さいのよ。」と、盛んに読者に知らせようという気持ちが強く出てしまう。詩というのは、読者に知らせようという気持ちよりは、自分の口をぽっと出て来た、そんなリズムが大切で、「極小に」と言ってしまった方がいい。
朝市の蕗のとうから捌けゆく
これはいかにも蕗のとうというものを表しています。どこが「蕗のとう」の面白さかと言えば、早く出るから面白いんです。つまり「蕗のとう」の旬は、もう旬ではないんです。昔から走りは珍重しますが、特に蕗のとうは走りが面白い。「あ、蕗のとうが出たんだ。」という楽しさで、その香りを楽しむものですね。虚子の句に「とくくれしこころざしやな蕗のたう」(字遣い未確認)というのがあります。早くに亡くなってしまった、島村元(はじめ)さんという方がいまして、慶應の先輩で、大金持ちの子息で、体が弱くて、専門の俳人になろうと思っていたのに、三十になったかならずかでしょうかね。大正十二年の七月だかに死んだんです。その未亡人が、その何年か後に、虚子の所へ鎌倉の家の蕗のとうを届けてくれた。それの返礼の句。若く死んだ、才能豊かな青年俳人の未亡人が蕗のとうを贈ってくれた。それだけのことなんだけれど、この句の場合、「とくくれし」がすごく意味がある。ぱっと見てみつけて、採って、もうすぐくれた。というところに、蕗のとうらしさがある。蕗のとうは早いから面白い。雪の中から採ったから、面白い。朝市に出たら、ほかに乾物などもある中で、蕗のとうが珍重されて、すぐ売れるのもなるほどな。飛騨高山の朝市だろうが、輪島の朝市であろうが、朝市だったらそうであろうな、ということがよくわかる句で、なかなか周到な句だと思いました。
御寺より一升枡の年の豆
  どういう事情でどうだか、よくわかりません。ただ檀那寺から、厄年かなにかなんでしょうね。一升枡で年の豆を送ってくる檀那寺があった。というふうに、僕は想像しました。一升枡にたっぷり年の豆を送ってくる檀那寺があるということは、お布施を普段たくさん出しているんだろうな。と、そんな檀越(だんおつ)と檀那寺との昔ながらのいい関係があると思いました。
清々と菊菜の苦味腑に落ちる
この句は「腑に落ちる」がなかなか洒落ていますね。五臓六腑とも言いますが、胃の腑に落ちたんでしょう。つまり香りを楽しみながら、春菊を食べて、その香りを苦みと共に、ごくんと飲み込んだ、その気分を「苦みが腑に落ちた」というのが、面白いですね。僕ら、日頃、「腑に落ちない。」などと言っていますが、このことばを原義的にお使いになったところが面白いし、「清々と」というのも、この季節感を表しているなと思いました。
杣小屋の前に咲かせて花かたこ
これは、それらしい句ですね。杣は樵というか、もともとは人工林が「杣」なんです。杣山というのは、自然林を杣山とは言わない。「わが立つそまに墨染めの袖」という百人一首がありますが、杣というのは人の手がはいったのが杣。杣小屋というと、森を管理している樵とか枝打ちをするような作業小屋。山の奥の方なんだけれども、そこにちょうど花かたこが咲いてをった。という句だろうと思います。
犬抱いて治療院へと梅の下
元の句、「犬抱いて梅花の下を治療院」。面白かったんですけれど、「治療院へと」というふうにお作りになったらと思いました。題材はすごく面白いです。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第67回 (平成18年2月10日 席題 実朝忌・片栗の花)

何事か叫ぶが如く樹氷群
樹氷というのは蔵王が一番日本では代表的かと思いますが、志賀高原の横手山でも、樹氷は「モンスター」とも言います。何とも言えない奇怪な形になって、それを見ると、「何事か叫ぶが如く」と、表現としてはある意味では生な表現、句としては若干生なものが残っている句ですが、その生さ加減がよろしいかなと思いました。
ゆるやかな鯉の動きに春近し
実はこれ、「寒鯉」という季題が別にあるわけですね。「春近し」といったら、当然寒中ですから、寒鯉と言ってしまったら、それで終わってしまうわけですが、それを敢えて寒鯉と言わずに、寒鯉なんだけれども、本当に春が近くなってきたので、ただ深い所にじっとしていた鯉にも、すこし動きが出たようだよ。寒鯉もとうとう春が近いんだなあ。と、そんな微妙な季節の流れを捉えた句というふうに、鑑賞しました。
堅香子の花の群れ咲く樵径
樵だけが通るような道を辿っていったら、堅香子の花が群れた所があった。「あー、こんな所に群れていたんだ。樵の通る道だから、樵は知っていたんだろうな。私は初めて知ったぞ。」と、ある程度、樵の暮し屁の思いに、ある程度入っているのが、この句、面白いと思いました。どなたかの句に、獣道というのがありましたが、獣が通る道ですから、ほとんど人間は通らない。大体、僕の認識では、獣道というのは低くって、せいぜい狸とか鼬(いたち)とかが、すらっと抜けるところで、獣道のようなということはあっても、獣道は人が通れないんじゃないかなという気がしました。
鎌倉の海荒れてをり実朝忌
これは、鎌倉の句として、まっとうな句です。面白いのは、実朝忌の頃になると、移動性の低気圧が通るようになる。いわゆる西高東低の固まった冬の天候ですと、鎌倉の海はまったく荒れない。鎌倉の海は、ようやく春になって、低気圧がどんどん通るようになると、荒れる日が多くなります。特に日本海に低気圧が入ると、鎌倉の海は大変荒れるんですけれど、そんな移動性の低気圧が現れ始めた頃だと思うと、この句、何気なく作っているようでいながら、実朝忌の季節感を表しているなと思って、感心した次第です。
薄氷をせきれい滑ってみたりもす
ちょっと冒険の句ですね。鶺鴒というのは、ご承知の通り、細い足で細かくちょちょちょちょと行くので、あの歩き方はなるほど滑りやすいですね。氷の上を歩いている鶺鴒を想像すれば、滑ることもしょっちゅうあると思いますね。それを「滑ってみたりもす」と、若干俳諧味を利かせて、わざと滑ってみたようにも見えたというところに、作者の心のゆとりがあるんだと思います。
春一番心ざわざわしてきたる
なかなか冒険的な句ですね。ひじょうに感覚的な句で、何か心配ごとが多かったり、家庭内でも問題があったり、ざわざわしている。それが、ほこりが戸の隙間から入るような日だった。二日さんと聞くと、主婦の、ある気分がありますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第66回 (平成18年2月10日 席題 実朝忌・片栗の花)

この坂をくだり終へれば梅林
この句は何でもなく詠みながら、自ずから付近のロケーションが見えてくる。ちょっとした丘がかった所に道があって、そこから谷底の所が梅林になっている。そのなぞえの辺りに梅があってもいいようなものだけれど、不思議なことにその斜面には梅がない。下り終わった所に梅林がある。なるほど言われてみれば、そんな光景もあろうかという感じだろうと思います。
厚着して爪の手入れも春の風邪
「爪の手入れも春の風邪」って、面白かったですね。「厚着して」は要らなかったかもしれませんね。ちょっと材料過多のきらいもなくもないと思います。「爪の手入れも春の風邪」は、なかなか色っぽくて、よろしいなと思います。
片栗の花咲く丘へ登りけり
こういう句が採られるのを、何故そんな単純な句がいいんだと思われる方もあるかもしれないけれど、俳句というのはリズムが大事です。「片栗の花咲く丘へ登りけり」と言われてみると、なるほどそういうこともあるだろうな。この句の場合、面白いのは、「上まで行くと、片栗の花が咲いているんだよ。」と誰かに言われて、「あ、そう。」ということで、普段は登らないような坂道なんだけれど、行ってみよう。とにかく登りきった。その一種の到達感、達成感が「けり」ですね。何か自分で、「ああ、登った。」その気持ちが景に反映して、大変リズム感のいい句だな。つまり珍しい景を探して詠むということよりも、景が珍しくなくても、気持ちよく詠んでしまう。それが諷詠だと思います。
鎌倉の谷(やと)を巡りて実朝忌
鎌倉と付けば、実朝忌は何でもいいようなものですが、これはそうではなくて、「鎌倉の谷を巡りて」というところに、ある思いがありますね。実朝の祖父の頼家が、比企一族と結託して北條と戦おうとする。それが比企一族が滅ぼされる。ところが、比企一族のいた比企が谷という、谷戸が今でも残っています。たしか妙本寺の辺りかと思う。鎌倉の谷戸、谷戸一つの名前に、それぞれの一族の館のある由来がありますから、「鎌倉の谷を巡りて」と言った時に、鎌倉幕府は実に血塗られた幕府で、勿論、頼家もそうだし、実朝もそうだし、修善寺物語に出てくる話も、本当に血なまぐさい話ばかりで、その後も、和田一族だとか、次から次へと大変な粛正の歴史が、東鑑など、本当に血だらけの歴史書です。その中にあって、実朝も血祭りに揚げられた一人で、そのことを考えると、鎌倉の谷戸の持っている歴史が感ぜられて、面白いと思いました。
挿し余りたる水仙のバケツかな
どこのバケツかなというのが、この句の鑑賞のポイントだろうと思います。自分の庭の水仙を切ってもいいんだけれど、僕は花舗、花屋さんですね。花屋さんがブリキのバケツに入荷した水仙を、一遍にばあーっと活けたんだけれど、バケツが小さくて、二、三本が余ってしまって、それを瓶に挿していた。そんな花屋さんの朝の光景を想像しました。自分の家ならそうたくさん切らなければいいんですから。入荷が思ったより多かったなと言う方が、それらしいかと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第65回 (平成18年2月10日 席題 実朝忌・片栗の花)

誘眠剤半分のんで雪を見る
夜、うまく眠れなくて、誘眠剤を飲むんだけれど、いつもは一錠飲むんだけれども、なんか眠れそうな気がして、半分だけ飲んだ。雨が何時の間にか雪に変わっている。戸をちょっと開けてみて、「あ、雪に変わったわ。」と言いながら、眠気がさしてくるのを待つ、静かな夜更けの時間。雨が雪に変わった状態が面白いと思いました。
湯につかりつゝ高窓の春の雪
これ、いろんな湯殿を想像できるんですが、僕が想像する湯殿は、ちょっと古いような、例えば山田温泉なんか、草津にもよくありますが、板がずっと高くあって、上の方だけがちょっと開いているような、そんなのが、よく温泉場の公衆浴場なんかにあります。そんな上の方の窓のところに、春の雪の切片が見えてをって、「あー、雪なんだ。」と思いながら、しみじみ湯に浸かってをる。 という場面を、私は想像しました。湯のたっぷりした温かさと、春の雪のゆっくりと舞い降りる様を楽しんでいる、そんな気持ちが伝わってくれば、この句はその役目を果たしているといえますね。
書割のごとき冬空雲一片
この句のいいところは、「雲一片」という字余りですね。「書割のごとき冬空」という言い回しは、今まで決してなかったわけではないが、真っ青な絵の具で塗ったような冬空。うーっと見回したら、そこに一つだけ雲があった。その雲をみつけた時の、心のちょっとした弾みが「雲一片」という音に出ていると言うふうに思われますね。
十歳を一粒として年の豆
子供の頃は、自分の年の数だけ食べたけれど、ある年を越したら、年の分だけ食べたら、おなかをこわしてしまう。十歳で、一粒ということにしておこうか。 という機転というか、老の賢さを感じさせる句だと思いました。
旧正や中華鍋(なべ)に絡む火龍のごと
この句の手柄は「龍のごと」というところに、大きな中華鍋の底を舐め回しているような、調理の風景を楽しんでいる。時あたかも旧正月であった。というところに、中華街でなくてもいいんだけれど、中華街の感じがしますね。『炒』とか『爆』とか、いろんな火の廻り方が中華料理にあるんですが、これは「絡む」だから、「炒」くらいでしょうかね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第64回 (平成18年2月10日 席題 実朝忌・片栗の花)

面着けて小鬼元気や豆を撒く
元の句、「面着けて小鬼元気に豆を打つ」。鬼は豆を撒かれる方だから、原句だと意味がわからない。子供が鬼の面をつけて鬼の役をやって、大人が豆を撒いているというのが、場面としては真っ当でしょうね。徒然草などに出てくるのは、宮中ではちゃんとした役人が駆けずり廻って逃げる。今は知りませんが…。豆は打つでなく、撒くですね。
公魚のきらめく腹をひと撫です
元の句、「ひと撫でし」。これだと、ちょっと軽いですね。「す」と終止形で抑えた方が、重みがきちっとすると思いますね。釣れたばっかりの公魚を、穴釣りでも、ボート釣りでもいいんですが、ちょっと手でもって、腹のあたりを撫でてみた。というと、いかにも小さな小さな公魚の、そのまた哀れな腹の様子が見えてきて、いいなと思いますね。
着ぶくれて三人掛けに二人居り
これは何の三人掛けだかよくわからないんだけれど、例えば電車のような所だとすると、三人掛けになるような広さの所なんだけれど、着膨れた人が真ん丸になって、二人掛けでちょうどいい感じがした。それをマナーとして責めてるわけでなく、ちょうどぴったりなくらいね。という感じ。足も短くて、床につくかつかないかみたいな、おばさんみたいな人を感じますね。
地に落ちてすぐ消える雪実朝忌
「雪」と「実朝忌」と、季重ねになっていますけれど、毎回言うように、特異性の強い季題が入っていると、そちらが強い。時期、時間限定性が強いのもそれです。実朝忌は、何日と決まっていますから、雪と出てきても、雪は弱い。従って、実朝忌の句として、なんら困ることがない。こういう作り方は季重ねがこわくない作り方ですね。
交りたる蛙動かぬ池の底
蛙って、本当に不思議なんで、蛙が交っている時って、気持ちの悪いように、何十匹何百匹交りながら、一方で産みながらという凄い状態がある。これは交っている蛙が動かないでいるというんだけれども、それが一塊でなくて、相手を変えながら凄い場面なんです。そのある一瞬を、凄い場面なのを、淡々と詠んだという面白さがありますね。俳句の一つの面白さですね。