花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第66回 (平成18年2月10日 席題 実朝忌・片栗の花)

この坂をくだり終へれば梅林
この句は何でもなく詠みながら、自ずから付近のロケーションが見えてくる。ちょっとした丘がかった所に道があって、そこから谷底の所が梅林になっている。そのなぞえの辺りに梅があってもいいようなものだけれど、不思議なことにその斜面には梅がない。下り終わった所に梅林がある。なるほど言われてみれば、そんな光景もあろうかという感じだろうと思います。
厚着して爪の手入れも春の風邪
「爪の手入れも春の風邪」って、面白かったですね。「厚着して」は要らなかったかもしれませんね。ちょっと材料過多のきらいもなくもないと思います。「爪の手入れも春の風邪」は、なかなか色っぽくて、よろしいなと思います。
片栗の花咲く丘へ登りけり
こういう句が採られるのを、何故そんな単純な句がいいんだと思われる方もあるかもしれないけれど、俳句というのはリズムが大事です。「片栗の花咲く丘へ登りけり」と言われてみると、なるほどそういうこともあるだろうな。この句の場合、面白いのは、「上まで行くと、片栗の花が咲いているんだよ。」と誰かに言われて、「あ、そう。」ということで、普段は登らないような坂道なんだけれど、行ってみよう。とにかく登りきった。その一種の到達感、達成感が「けり」ですね。何か自分で、「ああ、登った。」その気持ちが景に反映して、大変リズム感のいい句だな。つまり珍しい景を探して詠むということよりも、景が珍しくなくても、気持ちよく詠んでしまう。それが諷詠だと思います。
鎌倉の谷(やと)を巡りて実朝忌
鎌倉と付けば、実朝忌は何でもいいようなものですが、これはそうではなくて、「鎌倉の谷を巡りて」というところに、ある思いがありますね。実朝の祖父の頼家が、比企一族と結託して北條と戦おうとする。それが比企一族が滅ぼされる。ところが、比企一族のいた比企が谷という、谷戸が今でも残っています。たしか妙本寺の辺りかと思う。鎌倉の谷戸、谷戸一つの名前に、それぞれの一族の館のある由来がありますから、「鎌倉の谷を巡りて」と言った時に、鎌倉幕府は実に血塗られた幕府で、勿論、頼家もそうだし、実朝もそうだし、修善寺物語に出てくる話も、本当に血なまぐさい話ばかりで、その後も、和田一族だとか、次から次へと大変な粛正の歴史が、東鑑など、本当に血だらけの歴史書です。その中にあって、実朝も血祭りに揚げられた一人で、そのことを考えると、鎌倉の谷戸の持っている歴史が感ぜられて、面白いと思いました。
挿し余りたる水仙のバケツかな
どこのバケツかなというのが、この句の鑑賞のポイントだろうと思います。自分の庭の水仙を切ってもいいんだけれど、僕は花舗、花屋さんですね。花屋さんがブリキのバケツに入荷した水仙を、一遍にばあーっと活けたんだけれど、バケツが小さくて、二、三本が余ってしまって、それを瓶に挿していた。そんな花屋さんの朝の光景を想像しました。自分の家ならそうたくさん切らなければいいんですから。入荷が思ったより多かったなと言う方が、それらしいかと思います。

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