「鯨」 小沢藪柑子選 鯨割く指図や腕のなき男 藤永貴之 鯨売雪踏みしめて来たりけり 村静か鯨を祀る塚古りて 山内裕子 解体の鯨に立てる羽差かな 大貫松子 近在や鯨景気の人往来(イキキ) 本井英 鯨見の船も旅程に組み込まれ 津田伊紀子
課題句(2013年12月号)
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「鯨」 小沢藪柑子選 鯨割く指図や腕のなき男 藤永貴之 鯨売雪踏みしめて来たりけり 村静か鯨を祀る塚古りて 山内裕子 解体の鯨に立てる羽差かな 大貫松子 近在や鯨景気の人往来(イキキ) 本井英 鯨見の船も旅程に組み込まれ 津田伊紀子
季題は「門火」。盆の「迎火」、「送火」の両方を言ったものだ。この句の場合は「迎火」。精霊様が間違いなく、我が家を訪れてくれるための印である。夕方、家の門口に出て「迎火」を焚いていたら、遠くからすたすたとやって来る婦人があって、誰かと思っている内に「〇〇ちゃん、元気にしてた?」と言いながら「門火」を跨いで、勝手に家の中に入っていったのである。幻視と言ってしまえばそれまでだが、この時、作者には全く疑う余地も無く「母」はやって来たのである。それも記憶のままの、「若い母」であった。「気配あり」でも「来しごとし」でもないところに、作者の「母」を恋う切実が迸り出ており(勿論、作者は、それを狙っていたわけではない。)、読む者の心を打つ。(本井 英)
亡き母が門火跨いで来たりけり 矢沢六平 二の丸の石垣下に飴湯売り しみじみと一汁一菜今朝の秋 新涼や屋根診にきたる屋根の上 をとこらは寝ねて炬燵にをみならよ 藤永貴之 秋冷の宿の湯呑に酒を酌む 櫻井茂之 笹鳴や大石主税終焉地 山口照男 盆踊勤め帰りも加はりて 小林一泊
ただ楽し 本井 英
触れらるること待つてゐる含羞草 含羞草眠れば覚むるとも見えず 波乗の膝のやはらか波抑へ 銀漢や灯りてくらき海図室 明るさを抱き流るる天の川
岸釣の竿の長さぞ頼母しき 章魚釣りの立ちまじりをる根釣かな 島径も高みにかゝり葛の花 月明や大江山ならあのあたり 月の友妻に逝かれしもの同士
曼珠沙華明日明後日は咲かんずる 村空や運動会の楽ながれ 日にぬくみ運動会の大太鼓 老の目に運動会のただ楽し 糸芒かな雨が触れ風が触れ
三つ巴解けて巴や秋の蝶 浜木綿の実とてつるりとてらりとす 鯊釣るに渓流竿を持ち出して 鯊釣るる誘ひかければたまらずに 鯊釣れしとき二三言かはしをり
指先に蕗のあくつけ夕仕度よき妻を見て、愛情に充ちて、お詠みになった句だろうと思います。たしかに蕗は扱っているうちに、あくが出てきて、指先に入ってしまう。よく詠めていると思います。
新緑や走り来る児の眼の清き元の句、「新緑や走り寄る児の」。こういうことは単なることばの約束なんで、つまり「走り来る児」だと、こちらに向いてくる児を見て、眼が清いということがわかる。「走り寄る」というのは、自分の方に来るのではなく、第三者的に見ていて、眼が清いというのは頭で考えているだけで、嘘になる。「走り来る児」とすれば、この句が活きてくるということです。俳句会で、人に読んでもらう。そうすると自分は当たり前だと思っていたことが、人には通じない。自分では伝わると思っていたことが、人には伝わらない。だから、俳句会をやる意味があると思いますね。
王冠の空飛ぶごとく朴の花これでいいんでしょうね。ひじょうに斬新な表現。「王冠の空飛ぶごとく」と言われてみれば、朴の花の豪華な感じは、そんな空想を思い描いても、不思議はないという感じはいたします。「王冠の空飛ぶごとし」とやると、どこかへ吹っ飛んでしまって、わけわからなくなってしまう。やはり、「ごとく」なんでしょうね。
苗を待つ田に満つる水光るなりこれはちょっと手を入れ過ぎて、ごめんなさい。元の句、「苗を待つ田に満つ水面光るなり」。元の句で一番いけないのは、「水面」です。「田に満つ水面」というと、ごったらごったらしてしまう。田んぼは要らないかもしれませんよ。「苗を待つままに水面の光るなり」。掲句のようにすると、「満つる」と「光る」だと、うるさいですね。とにかく単純に作ることですね。
ピリピリと動く水輪や蝌蚪の池これ、うまかったですね。作者の今日の句では、これが一番いいのかもしれませんね。まだ蝌蚪が小さい時に、大きくなるとひょろひょろ動くから、ぴりぴりとしません。生まれたばっかりのおたまじゃくしが全部が動くと、細かく揺れるんですね。それをピリピリと言ったことで、よっぽど小さいおたまじゃくしだということがよくわかる。ピリピリという擬態語がほんとうによく活きているということで、作者の今日の句で一番いいでしょう。