花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第70回 (平成18年3月10日 席題 梅一切・涅槃) « 夏 潮

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第70回 (平成18年3月10日 席題 梅一切・涅槃)

白き鉢にねぎの青々田螺和
これも説明の話に照合しますね。元の句、「白き鉢ねぎ青々と田螺和」。これは散文です。特に「ねぎ青々と」の「と」がいかにも散文なんですね。それよりは、「ねぎの青々」の方がずっと諷詠になっている。そういう心持ちにならないとね。心持ちは、説明するような心持ちの時には、やっぱり説明っぽくなるし、嬉しくてしょうがない時には、説明っぽくならない。ことばが弾むんですね。それは腕というよりは、その時の心持ちかもしれませんね。
二ン月や天神様の絵馬の嵩 
似た句が無くはないんですが、ちゃんと言えているという点で、及第点の句ということで採りました。「いかにも」と思いますけれども、「天神様の絵馬の嵩」という捉え方が、ざっくりとした言い方で、それはそれでよかったんだろうと思いますね。
芽柳の四条河原にほのめきて
いいですね。四条の河畔か河原か、ちょっとわかりませんが…。川床の出る辺りには、河原にも柳があるかもしれません。(「河畔ですね。」)どっちでも構わないんですが、四条ということの感じがひじょうに出てをって、昔から四条河原あたりというのは、見世物がたくさんあった。それこそ象やライオンを持ち出してきたり、あるいは打ち首、獄門などと、晒し首もあるわけで、京都の一大スクエアーなわけだけれども、その辺り、今が今とて柳の芽が青々とある。ということになると、それから、灯ともし頃、どちらかへいらしたんでしょうか。などと、想像のついて、楽しい句だと思いますね。「ほのめきて」というところに、柳の芽を表現していながら、街の雰囲気が春のほのめきを感じさせるということになると思う。
単線の駅にあふれて梅見客
まあ、これはいかにも青梅線沢井あたりの景色かなという感じがしますが、梅の頃。単線の電車が着くと、人がわっと降りた。梅の里なんでしょうね。単線の小さな小さな駅だけれど、今ばかりは人で溢れかえっているということですね。勿論、これはいい句で、非の打ち所がないんだが、もしかすると、「単線の駅にあふれて梅の客」の方が上品かもしれないですね。梅見客というと、テレビのニュースみたいになってしまう。梅の客というと、ちょっとゆったりとしていますね。「梅見客」というと、音のリズムがちょっとせこせこしている。「梅の客」というと、ふわっとしている。梅の里があって、単線の鉄路があって、細い手入れをしていないようなホームがあって、そこに溢れた人がある。「梅見客」というと、さかさかさかとしてしまうんだけれど、「梅の客」というと、ばらけた感じがしてくる。それはことばのニュアンスの問題ですね。
春の日やダックスフント急ぎ足
昔は日本にはダックスフントなんていなかったんでしょうが、段々に西洋犬が増えてきた。ダックスフントとしては普通に歩いているんだろうけれど、人が見ると急いでいるように見える。そこが俳諧ですね。元の句「ダックスフントの急ぎ足」。「の」が入るのは、散文です。「の」を入れないで、充分わかる。そこの字余りは効果がないどころか、リズムを崩してる分だけ、損してしまうと思います。

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