光から雷鳴までを息つめて   木下典子

 季題は「雷鳴」で夏。「雷」の傍題である。他に「神鳴」、「いかづち」、「はたたがみ」、「雷鳴」、「雷神」、「遠雷」、「落雷」、「雷雨」、「日雷」などが傍題として挙がっている。よく見ると、これらはみな「音」ばかりで、同時にもたらされるはずの「閃光」、すなわち「稲妻」は含んでいない。そして、何と「稲妻」は秋の部に、「稲妻」、「稲の殿」として取り扱われている。

 つまり実際の自然現象としては、同時にセットで起きている「音」と「光」が、「歳時記」上では異なる季節の出来事ということになる。近代的な、あるいは西洋的な「合理主義」とはやや異なる、日本的な「感じ方」がここでは求められることになる。結論を先に言えば、我々日本人は「稲妻」の「稲」の部分に大いに反応し、「稲の妻」、「稲の殿」というように、稲が結実するための「外的な力」として「閃光」を考えていたわけである。俳句が決して全き「近代文学」では無く、「伝統の制約」を受け入れて成り立つ「伝統文芸」である所以はここにある。

 とにもかくにも、「稲」が無事稔ってくれることを希求する、悲しいまでの「祈りの心」に同感を覚えなければ、このような「不合理」を「近代的日本人」と称する人々が理解することは出来ないであろう。「俳句」とは、この列島に営々と農耕民族として暮らしてきた祖先たちとの「あるアイデンティティー」を感ずる人にだけ開かれている、狭い狭い「領域」に過ぎないのである。

 さて掲出句は、そうした一見矛盾に満ちた季題の世界を、精一杯合理的に詠むことに努力を傾注した一句と言えようか。「光」と叙して、実質的には「稲妻」を取り扱いながら、「光線」と「音響」の速度の差を(誰もが実感として知っている)、的確に、誰にでも同感できるように写生している。「息つめて」の表現も大袈裟でなく好感がもてる。(本井 英)

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