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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第25回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

街路灯にかぶさるように栃の花
元の句、「街路灯かぶさるように」。これも、「街路灯に」と字余りにした方がいいんでしょうね。街路灯がかぶさっているのか、栃の花がかぶさっているのか、わからない。字余りにして、「街路灯にかぶさるように」とすると、栃の枝がずっと伸びて来て、かぶさるようになった枝、その枝に花が咲いているんだというのが、はっきりわかりますね。
満開の藤棚の下六地蔵
いいですね。六地蔵。六道輪廻。六つの世界があるわけです。その道しるべになっているのが、お地蔵様です。どこにあったっていいようなものですが、それがたまたま藤棚の下にあった。と言われてみると、藤色の紫の、紫雲といいますが、仏様が顕われたり、偉い人が亡くなったりすると紫の雲が立ったという話はいくらも高僧伝には出てきます。そんなことまでも連想させる紫色のよろしさというものが、こうやって仏様の上にあるんだ。ということで、六地蔵のあり場所としては、なかなかすばらしいなと思いました。
夏に入る自転車の娘の髪軽く
元の句、「自転車こぐ娘の髪軽し」。これは「こぐ」は要らないでしょうね。それは散文です。「自転車の娘」で、もうこいでいます。「髪軽し」では「夏に入る」が薄くなってしまう。「(前略)髪軽く」でもう一回、「夏に入る」に戻る。そうすると「夏」がしっかりと見えてくる。「髪軽し」だと、髪がしゅーっというところに集中して終わってしまうので、季題が何だっけということになってしまう。
二階より眺め牡丹の花白し
これもいい句ですね。牡丹というのは、近くから見ると、仔細を見たくなる。蕊はどうだ。花弁はどうだとね。ところが遠くから見ると、仔細は見えません。ですから花の形状というよりは、色で見えてくるんですね。元の句、「二階より眺む」では、ちょっと重いね。「眺む牡丹」て、牡丹にずーっと気持ちが集中できない。「二階より眺め」って、軽く切って、「牡丹の花白し」とお詠みになった方が、この句の牡丹の白さが出てくると思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第24回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

朴咲いて白馬村なる日和かな
元の句、「白馬の村の日和かな」。『白馬の村』というと、『白馬の騎士』みたいになってしまって、あるいは、白い馬がたくさんいる村みたいになってしまいますね。白馬の村はちょっと無理でしょうね。もしかして信州の白馬村だとすればね。そうしたら、白馬村とおっしゃらなければ無理なんで、掲句のようにすると、なるほど、栂池とか、天気がよければ、上の白馬槍とか杓子とかが見えている。その日和も、想像できると思います。
雨音に明日の牡丹を思ひをり
牡丹が庭に咲いてをった。今日はきれいだった。雨音がしてきた。どうだろう。明日見てみよう。こぼれてしまった花弁があるかもしれないなー。だからと言って、シャッターを開けたり、雨戸を開けたりして見るわけではないんだけれど、頭の中で、今日一日見ていた牡丹と、明日の朝の変わり様を、心配しながら、雨音を聴いているという句。元の句の「思ひやる」だと、ちょっと違う。「思ひやり」とか「思ひやる」だと、情が籠り過ぎてしまって、味が濃くなってしまう。「思ひをり」と少しクールにしてしまった方がいい。
京御幸町上ル西入ル新茶買ふ
どこだか存じませんが、上ル西入ルで、大きな碁盤の目から外れていない部分だということが、この表記の仕方でわかる。古い葉茶屋さんがあって、わざわざ買いに行った。おそらく京都の人皆が好む、新茶が宇治から運ばれて、京の 町中で、売られているのであろうというところまではわかりますね。
密柑山の花の香りに誘はれて
これ、最初から「密柑山の」と字余りでしたね。大分、表現のコツを飲み込まれたことを、嬉しく思います。「密柑山花の香りに(後略)」では歌謡曲になっていってしまう。「密柑山の花の香りに」とすると、突然上品になって、その香りがひじょうにいい香りで、たまたま上る気はないんだけれども、あまりの香りのよさに、「ちょっと上ってみようか」というので、畑につれて上ってみた。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第23回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

なめくぢの通りし跡か光りをり
元の句、「通りし跡や」。『跡か』がいいでしょうね。「や」にすると、切れ字みたいになってしまう。切れ字の「や」にしてしまうと、『跡だー。』と言っておいて、「それが光っている」というと、しつっこくなってしまう。「なめくぢの通りし跡か光りをり」というと、「光りをり」が強くなりますね。「や」で切るのではなくて、「か」と軽い疑問で、止めておく。それがいいと思います。たしかに光っていますね。乾いてね。
蛞蝓の跡らし壁をぬめぬめと
元の句、「(前略)壁のぬめぬめと」。壁全部がぬめぬめとしていたら、気持ちわるいわね。通った軌跡がぬめぬめと見えたとする為には、掲句のように。元の句だと、壁全体、おそろしい景色になってしまう。
橡の花チャペルの庭にこぼれけり
これも面白い句ですね。もちろん、日本のどこか山国の、信州かどこかの小さい庭にチャペルがあって、橡の花がこぼれてをった。信州でなくてもいいんですが、橡の花というのは、マロニエとが仲間という意識がどこかにあって、どこかフランスのチャペルのそばにマロニエが咲き誇っているなんていうのは、いくらでもありそうだけれども、マロニエの花でなくて、橡の花が日本のチャペルの庭にこぼれてをったというと、どこかで遠いイメージとして、西洋のマロニエと栃の花の微妙な気分みたいのがあって、面白いと思いますね。「庭にこぼれけり」で、もしかしたら、そこで今日は結婚式がささやかに行われているのかもしれません。そんな連想も楽しく湧いてくる句だと思います。
蟻つかみそこねたる児のつんのめる
これ、あるんですね。一つ半くらいの児でしょうかね。真下ならいいんだけど、ちょっと先の蟻を掴もうとして、前のめりになったら、まだ頭が重いし、脚力がないから、なるほどこれは実景だったと思いますね。空想でこういう句はできないと思いますね。そして「つんのめる」という言い方も平易で、よろしいと思います。小さい児のむちむちした足首が見えてきますね。
朴咲いて白馬村なる日和かな
元の句、「白馬の村の日和かな」。『白馬の村』というと、『白馬の騎士』みたいになってしまって、あるいは、白い馬がたくさんいる村みたいになってしまいますね。白馬の村はちょっと無理でしょうね。もしかして信州の白馬村だとすればね。そうしたら、白馬村とおっしゃらなければ無理なんで、掲句のようにすると、なるほど、栂池とか、天気がよければ、上の白馬槍とか杓子とかが見えている。その日和も、想像できると思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第22回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

蛞蝓(なめくじら)ビルの五階の植木にも
さ、ビルの五階がどんな所なのか、五階建て、八階建てのマンション、どういう所でもいいんだけれど、そういうマンションの立派なテラスに、植木がある。あ、ここのお宅も五階ですね。ここかもしれませんね。ともかく立派な植木をテラスに出しているお住まい。「あ、どうやって、このなめくじが来たのかしらね。」「どうやって、上がってきたのかしら。」という、軽い興味ですね。
擬宝珠の筋目正しき葉の茂り
季題は「草茂る」です。季題を「擬宝珠」にすると、花が咲いていることになります。ただ「茂る」というと、木が茂ることになります。どちらも夏の季題です。たまたま茂っていたのが、擬宝珠の葉で、その葉の筋目が実にきちっとしてをった。擬宝珠は「こば」「おおば」の二つの種類がありますが、そんな擬宝珠の感じが出ていると思います。
そびえ立つごとくに咲きて栃の花
うまいですね。なるほど、栃の花の咲き様は、そびえ立つごとくというとおりだと思いますね。元の句、「そびえ立つごとく咲く花」。咲く花の「花」はいらないですね。「花」が重なって、効果が出ないですね。栃の花って、こういう風に咲くんですよ。という強引さが、表面に出てしまう。それよりは、もっとさりげなく、「そびえ立つごとくに咲きて」となさった方が、さりげなさの中に、かえって実情が見えてくる。元の句だと、景そのものよりも、作者の顔が見えてしまう。
新緑の小山突き抜けカルデラ湖
元の句、「新緑の山突き抜けてカルデラ湖」。作者の場合はトンネルみたいなところがあって、新緑の山で、トンネルを抜けて出たら、その先にはカルデラ湖が広がってをった。という、外輪山にトンネルがあって、それを抜けたんでしょうね。元の句はね。僕は最初、そういう風に思わなかった。カルデラ湖から島山が突き出ているという感じがした。ちょうど洞爺湖かなにかにありそうなね。普通は「新緑の島が浮かんでいる」というような凡庸な表現だけれど、それを「新緑の小山突き抜けカルデラ湖」というと、中央火口丘がカルデラ湖を突き抜けている。下から上へぐっと盛り上がる力が、カルデラ湖を突き抜けて、押したのかと思うと、「あ、なるほど。洞爺湖あたりの感じだな。」と思って、そういう風に読んでしまったんですよ。勝手に。ところが、披講をうかがってましたら、「ああ、そうじゃない。もしかしたら作者が考えていらっしゃるのは、トンネルかなにかで外輪山を突き抜けて出てきたら、カルデラ湖があったというのかな。」と思って、だとすると、採らない方がよかったかなと、今、反省してるところです。「島山がカルデラ湖を突き抜けて出ていた」というと、ひじょうに力強い感じがありますね。
鍋ふたつ筍と蕗煮えにけり
面白いですね。大鍋だっていう感じがしますね。筍は煮てるっていうんで、よほど上品な筍なら別ですが、普通筍を煮るというと、大きい鍋になります。それに何と言っても、匂いですね。この二つが同じ台所で煮えた時の匂いが、どんな匂いかしらと思うと、不思議な感動を覚えます。どこかの大きなお総菜を作る所とか、お弁当を作る所とか、そういう所なんでしょう。普通の家庭の食事時のというより、何か人様に供する為に、筍と蕗を煮ているというように、私は感じました。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第21回 (平成17年5月13日 席題 蛞蝓・橡の花)

伐採の青葉の香り道包む
季題は「青葉」ですね。伐採は間伐でもいいんですが、何かのことで、青葉の茂っているのを伐ることになった。チェーンソーの音がして、道の辺りに、葉がついたまま枝が盛り上がっている。そんな所を歩いたところが、その香りが道全体を包むようにあった。ということです。元の句、「伐採の青葉香りて道包む」。これだと、青葉が道を包むことになる。香りが道を包むんでしょうね。そうすると、掲句のように「伐採の青葉の香り道包む」としないと、句としては成り立たないですね。
麓なるつつじの色へ下りけり
つつじの色というのは、何も一色ではなくて、いろいろの色があるんだけれども、目が痛くなるような赤い色ってのがあるんです。外の花にはなかなか無い色なんですけれど、つつじの最も特徴的な色でしょう。小高い丘から下のつつじの方へずっと降りてきた。それはつつじへ降りるというより、つつじの色に降りていくような感じがしたということで、霧島とかの高原の感じでもいいし、 どこか植え込んだ六義園とかの築山を見るのも構わない。あるいは小石川の植物園の上から下へ降りてくるのも、こんな感じがしますね。そんな心楽しい句だと思います。
平均台のやうに茎来し天道虫
元の句、「平均台のやうに草来し天道虫」。『葉』だと平均台という感じがしない。茎だと、なるほど天道虫の腹より茎の方が狭いことがありそうで、平均台という比喩が生きるでしょうね。
牡丹描いて牡丹見ている昼下り
ちょっと感じがある句ですね。牡丹が咲いたので、牡丹を描いてみましょうというので、描き始めた。しばらくして描き上がってもいいし、途中で描くのを止めて、他のことを考え始めてしまって、手は止まったままで、牡丹を見ていた。描き上がったわけではないが、描く気持ちではなくなって、ほかのことを考えながら、牡丹を見てしまったという方が、句としては、深いかもしれませんね。元の句、「牡丹描き牡丹見ている」。これだと、説明っぽくなってしまいますね。「牡丹描いて」と字余りになさった方が、この句はかえって生きるかもしれません。
湯気もまた緑色なす新茶かな
ちょっと出来過ぎている。湯気が本当に緑色かというと、そんなことはないんで、湯気の下にあるお茶の緑が映えて、湯気もそんな感じに見えたというんでしょうけれども、それを強引に「緑に見えます。」と言った潔さもいいのかもしれません。でも若干危険分子を含んでをりますね。
葉桜のたはむるるごとそよぎをり
元の句、「たわむれるごと」。「たはむるるごと」でしょうね。「たわむれる」は口語ですね。「たはむるる」は文語。なるほど花の咲いている時に、揺れていると、『戯れる』という感じより、「まあ、散っちゃったら、どうしよう。」なんて言う方に、人間の気持ちが行ってしまう。葉桜だと、よほど風に吹かれても、現金なもので、安心して見ていて、まるで『戯れているようだな。』葉裏と葉表に、若干の色の違いが、それほどけざやかではないんだけれども、出てきて、面白いですね。葛の葉みたいに表と裏の色が全く違うというと、もっともっと違う印象になりますが、でもこの葉桜の気分がよく出ていると思います。