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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第5回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

漉く紙に紅葉黄葉と散らしけり

元の句、「紅葉黄葉を散らしけり」。これでは理屈。「を」では、紅い葉も黄色い葉も、どちらも「もみぢ」ということに興じすぎている。「紅葉黄葉と」だと、「赤いの入れたから、もう一つは黄色いのを入れましょうか。」というような慮りが、その句の中に見えてくる。だから、これは「を」ではなく、「と」なんだろうと思う。

 

紙を漉く部屋の空気の澄みわたる

これ、ここ(句会場)へ来て、(席題で)作ったんですよね。(感心)干すのは、太陽の光に干したり、鉄板に干したり、いろんな干し方がある。だけれど、漉くのはどうしたって寒い寒い部屋で、水がじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ流れてる所でやっていたんですね。そこの空気が澄みわたっているというのは、なるほど、そういう捉え方があるなと思って、感心しました。

 

鳴り出せる笛吹ケトル日短か

これもいいですね。何か忙しい感じがして、ピーポーといってくる。そんな笛吹ケトルなんて洒落た道具立を持ってきながら、「日短か」は、本当に僕たちに迫ってくるものがあると思います。

 

隠し湯に深傷を負うて冬至粥

この深傷っていうのね。ここでも話したことがあると思うけれど、俳句の中には詠史の句、歴史を詠む句があっていいと思っています。かつてはありました。近年、あまりにもそういうゆとりがなくて、写生、写生とか、人生、人生とか、環境、環境っていう句ばかりで、よわったものだと思っています。これなんか、信玄の隠し湯みたいなものに行って、あたかも信玄かなにかが、深傷を負って、その湯で湯治をして、ちょうど冬至に近かったので、冬至粥を召されているという、歴史の一齣を再現してくれた詠史の句として見たら、すごく面白いと思いますね。しかも秋口に戦いがあったんでしょう。それで深傷を負って、引き上げたんだけれど、けっこう傷の本復が長引いて、冬至になってしまった。「来年はどうすればよろしいかのー。」と家臣に訊いているような大将の姿が見えてくる。俳句の豊饒の舞台というものを、こういう句が広げていくのだろうと、ありがたく思います。

 

柚子の実の一つ一つの陽を受けて

元の句、「柚子の実や一つ一つが陽を受けて」。説明っぽいのね。「柚子の実や」っていうと、柚子の実がそんなに大事か。みかんの実だって、一つ一ついきますよという反論が出てきそう。今の若者のことばでいうと、「素」。そのままで、上々の景としてどう?と、「うん。」と見た方も喜ぶという世界の句ですね。だから、「や」とか切っていく必要はないんで、掲句のようにして、「の」を重ねることによって、丸々とした柚子が見えてくる。「一つ一つが」とすると、「が」が濁音だし、ちょっと理詰めっぽくなりますね。掲句のようにすると、やさしく、ほわーっとぼかした黄色い図柄が出てくるように思います。

 

鰤揚がる海にさし来し日の矢かな

これ、日本海の景色をご存知の句ですね。この頃の日本海は日の矢が差したと思うと、一瞬にして曇って、霰が降ってくる。そんな時が、ちょうど鰤が獲れる季節です。その日本海の景をよくご存知で、こういう句と出会うと、ああ日本広し。それをまた楽しむことも、よろしいなと思います。

席題で苦労なさることは、とても大切です。絵空事で作ったのが何になるとお思いでしたら、そうではない。席題で苦労するということが、「鰤」って何だろう。どうやってきたのだろうといったことを考えます。そうすると、記憶の中に分け入っていきながら、記憶の中で写生するんですけれども、そういうことが次に鰤を見た時に、あるいは紙漉きを見た時に、ああ、こうなるんだ。という興味が僕たちを結び付けてくれる。俳句というのは、作っていない時にも上達する。作っていなくても、ものを見ていますから。俳人としてものを見ていると、紙の漉き方はなるほどな。こうだな。ああだな。すると興味がいっそう深まるし、定着していく。そして、こういう場で題詠で作る。それの繰り返しですね。それが、季題と仲良くなっていくことだし、季題と仲良くなっていくということが、この造化という神の営みに、僕たちが一歩一歩近づいていくことです。

乾坤ということばがありますね。天と地といってもいいですが、乾坤への愛っていいますかね。それは天候の句、あるいは地形の句などもありましたね。地形は坤ですね。天地人とも言います。天に対すること。地に対する興味、人に対する興味が一層深くなってくる。人生的には大先輩の前で、口幅ったい事を申し上げかねますけれども、そういうことで人生の一齣一齣をより細かく、乾坤と結びついていくことが、人生を豊かにしてくれる。出来た作品が勿論大切なんだけれども、その作品を作っていく様々なプロセスが、全部僕たちにとって有効なんだろうという気がします。席題の句は、正攻法に作るべきなんですね。僕が採らなくても構わない。正攻法に作っていく中で、人様の作った句と出会う。それも大変大事なことだと思います。ともかくも、作っていない間も、俳句はうまくなるということを、心に留めていただけたらと思います。

(平成16年12月10日の稿、以上)

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第4回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

大漁の鰤丸々と肥えてをり

これも、まっとうな写生の仕方で、こういう句からどんどん想を練っていかれると、その時の鰤はこうであったということが、段々発展していくんだと思います。

 

漆黒の闇鰤起し鋭くひかる

「漆黒の闇」とまでおっしゃったところに、いわゆる日本海、金沢とか富山とか、そういう所の海というものは、なお一層濃い闇であるよ。と想像させるような所ですね。鰤起しというのは、実は季節風が強く吹くと、これは僕の想像なんですが、富山湾なんかでいうと、沖へ帰る風が強いですから、鰤の回遊コースが陸寄りになるんですね。定置網の距離の所に入ってくるので、北風が強くって、雷がゴロゴロゴロと鳴るようなことを「鰤起し」というんだけれど、そういう風の時にほど、鰤が網によくかかる。ただ、そういう時は一番危険で、起しに行った漁師がよく遭難するんですが、富山では特に鰤がないと、正月になりませんから、そんなことになるんだろうと思いますね。

 

気持まず走り始めて十二月

これもいい句ですね。師走ということばを、どっかに感じさせながら、気持ちが走っていて、まだ十二月、そんな深くないんだから、そんなに焦ることはないんだけれど、なんか気持ちが焦っている。というのを、「走り始めて」というのが、うまい言い方だなと思って、感心いたしました。

 

灯りける路次に鍋の香漂へる

元の句、「漂ひぬ」。完了の「ぬ」だと、一過性の感じがしてきますね。「漂へる」というと、ずっと漂っていたということになる。この句の面白いのは、「灯りける」というところ。それまで点いていなかった路次に、割合日暮れが早くって、灯がぽっとついた瞬間に、ぱっとその路次が、路次として浮かび上がる。その時に、本当は香っていたはずの鍋の香りが、一層、どこかの店で鍋をやっているなという感じがする。ぽっと灯った瞬間に、実は香りまでが、その場に登場してくるという解釈をしたんです。その為にも、「漂へる」となさった方がいいと思います。

 

紙を漉く手赤く息の白々と

元の句「手赤し息は白々と」。「赤し」で切ってしまうと、「息は白々と」がどっかにいってしまう。「手赤く息の白々と」というと、赤と白のコントラスト。元のようだと、ばらばらになってしまう。その辺も、助詞の使い方を工夫なさって、俳句は「切る」か「付けるか」で、勝負がつきますからね。意識してなさるのがいいと思いますね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第2回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

立派なる御門の内に大根売る

これ、面白い句ですね。村の小さな歴史がこの中にあるように思います。きっと大きなお百姓さんだったのが、その一部を工場に売ったとか、高速道路に売ったとか、あぶく銭が入って、門を立派に建てた。敷地がずいぶんあるんだけれど、先代のおばあちゃんが元気で、大根を植えたりしている。その大根を御門の内の、ちょっとした所に台を置いて、一本五十円といった無人スタンドのようなものを置いている。息子たちはそこまでしなくてもと言ったり、そんな急激に変わっていく日本の農村のある一齣が、大根という語らぬものを主人公に置きながら、見えてくるなという感じで、この句を面白いと思いました。

 

久々に誂へし足袋きついこと

この句の眼目は「きついこと」ですね。足袋が冬の季題なんですが、足袋はきつめにというんですね。だぶだぶの足袋を履いているのは、みっともないそうですが…。そうすると、「こんなにきつかったかしら。」と言いながら、嬉々としていて、「これなら野暮天ということなく、いけるわ。」ということ。それを「きついこと」という言い回しが、やさしくて、いいと思いましたね。

 

湧水で磨き上げたる大根かな

なかなか堂々たる句で、この句のよさは、大根の白さがよく見えますね。ただ洗ったというよりも、磨き上げたといわんばかりの大根。洗っているうちに嬉しくなって、よく洗う。洗われている大根も、嬉しくなって、よく輝くという、自然のものと人間との心の交流まで見えてくるような、いい句だと思います。

 

忙中閑(それはさて)ホットワインと小津映画

これを何故わたしが採るかと疑問をお持ちになる方もおられると思います。僕の作り方とは、大分違う方向へ向かっていく句だと思います。ただ、私の選は広うございますから、この方はこの方向へいらっしゃればいいのかなと思えば、採ります。ただ、この方向は僕と違うということを承知でお作りいただけば、基準にはまっていれば、私は採ろうと思います。「忙中閑」を「それはさて」というのも、面白いし、「ホットワイン」、これが季題になるんですね。「ヴァン・ショー」ですね。その「ホットワイン」という季題を、面白く持ち出されたのも、いいと思います。ただ、小津映画とホットワインとがどうなるかなというのが疑問の残るところです。後ほど映画好きの皆さんの議論を待ちたいと思います。こういう方向も俳句の豊かな流れの中にはあるんですよ。そして私は意固地になって、採らないということはありませんということです。

 

水音の乱れぬリズム紙を漉く

これは、なかなかいい句です。紙漉をご覧になった時の、簀ですね。桶みたいな簀の舟って言うんでしょうかね。その時のたぽたぽっていう、それがリズミカルであったということで、職人さんの熟練の度合いを、自ずから察することができると思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第1回 (平成16年12月10日 席題 鰤・紙漉)

淋しきはビルの谷間の枯木立

勿論、季題は枯木立なんですが、枯木立というと、今流行りのことばで言うと里山とか、そういう所の木々。それがすっかり枯れて、十幹とか二十幹とか並んでいるという感じがするんですけれども、そういう自然の何百年も生え替わり、生まれ変わってきた木立と違って、ビルの谷間の枯木立というと、いかにも植えましたという感じ。小難しいことを言えば、きっと土地の建ぺい率があるんでしょう。高いビルを立てれば、必ずビルでない部分に公共の部分を作らないといけない。そうするといかにも植えましたといった木がある。そういういかにも人工の、持って来て植えましたというようなしらじらしさみたいなものが、この句にはありますね。「淋しきは」という打ち出し方は、ひじょうに主観的で、今まで採らなかった傾向とお思いかと思いますが、この句の場合には枯木立がいかにもその場にそぐわぬ、その冷涼たる気分は「淋しきは」と打ち出さないと言い切れないだろうと思います。

 

なじまない猫と住み居て漱石忌

勿論、賛同者が多かったので、よくおわかりと思いますが、「猫」と言えば、漱石忌ということになる。その猫がいつまでたっても主人に馴染まない。他の家族にはなつきながら、どうも俺にはなつかないぞ。可愛いと思いながら、どこか十全に満足しない。そんな主人公の漱石忌を迎えての気持ちがよく出ているなと思いました。

 

村のバス朝夕二本紙を漉く

席題の句の優等生の方向の句ですね。この句が今までなかったかというと、なくはないと思うんですが、席題を与えられた時に、自分の想をこういう方向で広げていくということは、一つだと思うんです。つまり、紙を漉くというのは、どういう所か。離れた所なんだよな。人があまり来ないような里なんだよな。とか、そうするとバスが二本しか来ないとか、段々想が発展してきますね。そうすると空想でなくて、長い人生の中でそういう所はこうだよということが出てくるわけですね。その世界へ自分を旅させていく。題詠の面白さは、自分の過去のさまざまの見た事や、聞いたことや、テレビの映像で見た世界に、ふーっと入り込んでいって、そこで見聞をしてくる。そういう時に「村のバス(後略)」の方向で、どうぞ想を練っていって下さい。そういう顕彰の意味で、採りました。

 

小春日の煙にむせて泉岳寺

元の句、「小春日や」。「や」で切ってしまうと、この句の狙いがはずれてしまうかもしれませんね。さっきも言ったんですが、そろそろ十二月十四日だ。という気持ちで、今日はいい天気だ。あの時の、ま、あの時の十二月は西暦の二月頃になるんですが、雪の降った日なんですが、そんな雪の泉岳寺の朝を想の片隅に置きながら、今日の小春日和をめでている。なるほど、泉岳寺というのは、日本の寺の中でも、煙の多いお寺ですね。