蕗のとう包みてくるる指の荒れ
いわゆる生産者市場でも構わないし、もっと農家そのものでもいいんだけれど、「蕗の薹、持って帰んなよ。」と言って、新聞紙にざくざくっと、二、三十個包んでくれた。その音が、がさがさといいながら包んでいる包み方を見ていると、その指が全部荒れて、からからに乾いて罅が入って、土が細かいところまで染まっているような、そんな太い指だった。という句ですが、「指の荒れ」というところがむずかしいですね。そういうと、「指の荒れ」が包んでくれるようになってしまう。「蕗の薹を包んでくれる指」で切って、その指が荒れていると言わなければいけないんだけれど、表現として飛躍というよりは、ふつつかですね。何とかしたいところなんだけれど、短時間にこう言ったらという提案を、うまく練りきれませんでした。
トランプの恋占ひや春の風邪
いかにも春の風邪らしい。熱があるわけでもないけれど、ぐずぐずとしてをる。思春期の少女でしょうね。今日は風邪だからと言って、ガウンをまといながら、ベッドに入らずにいる。それがトランプの恋占いかなにかをしている。と言った風情で、まことに「春の風邪」という季題趣味に寄り添った句だと思います。ただし、こういった句がこれまでに無かったかと言えば、世の中にあったかもしれません。ただ毎回言っているように、あったからと言って、正しい作り方をしていれば、採るというのが私のやり方です。
あお向けに寝て鼻先に寒さあり
さあ、この句は大変人気があった句でいいんですけれども、「余寒」というのは、寒があけて春になったのに、そぞろ背中が寒くなるような不愉快な寒さを余寒。(元の句、「余寒あり」)この句の場合には、「おお、寒い寒い。」といって、寝た後、この場合、ベッドでなくて、畳なんですね。それも、家族が温めておいた部屋でなくて、一人で帰ってきて、あるいは自分の家でなくてもいいんですが、ふとんが敷いてあって、とにかく寝てしまおうと寝たところが、空気が冷えていて、鼻先あたりがその空気の高さがまだ寒い。「余寒」というと、「一旦暖かくなったのに、またね。」ということ。この句の中心は、鼻先が寒い。低いですからね。畳の高さは。「余寒」というと、この句の焦点がぼけてしまう。だから、実際は余寒だったろうけれど、句としては、掲句のようにするといいと思いますね。ちなみに、最近のある大結社の流行は、「鼻先にある寒さ」と下五に動詞の連体形に名詞がつくというのをやっていますね。病気のように。
歯ごたへを残し茹であげ松葉独活
元の句、「茹で上ぐ」。これだと、終止形になって、いっぺんこれで切れる。「茹であぐ」というと、「松葉独活とはそんなものであるよ。」「茹であげ」というと、ポーズはあるんだけれども、意味が違う。「はい、こうして茹であげましたところの」という、連用形のよさですね。連用中止法というんですが、一旦軽く止める。この場合には、「茹であげ」と言った方が、いかにも湯気がほわほわっと、この場合、グリーンアスパラだと思うんですが、アスパラの感じが見えてくると思います。くたくたっとならない…。
日々かくも寒きまゝ梅咲き残り
この作者の一つの境地に、一つステップアップなさったと思いますね。もともと、いろいろ内蔵していらっしゃる方なんだけれど、こういう句作りをできるようになったということは、ここで大きく段を上ったなという気がして、嬉しく思いました。この句は厳密に言えば、季重ねです。「寒さ」という季題と「梅咲き残る」という季題。勿論、この句は「梅咲き残る」という「梅」が季題なんですけれども。「寒い日が毎日、毎日だけども。ああ、梅が残ってるな。」それだけれども、理屈になっていない。この句と出会えて、今日は嬉しゅうございました。