新涼の小間に真白き芙蓉かな
うーん、どう解釈するかしらね。この句、厳密にいえば「新涼」と「芙蓉」と季重ねですが、「新涼」がはるかに強い季題ですから、芙蓉は季題にならない。「新涼」が季題。その新涼の小間に白い芙蓉が活けてある。色っぽいようですが、芙蓉だから、色っぽくはない。清潔な感じ。季題が心を語るというのは、このことでしょうね。季題に意を託している。季題が上品な季題「新涼」ならば、上品な句になる。
水澄むや金魚大泡ひとつはき
これも季重ねです。「水澄む」という秋の季題と、「金魚」という夏の季題が重なっています。これも「水澄む」がひじょうに強いですから、金魚が夏の季題にならないですね。夏の間あーっとしていた金魚が、水の澄む秋になってみたら、ずいぶん元気よく大きな泡をぼかーんと吐いた。金魚があくびするような…。ああ、夏は大変だっただろう。秋になって涼しくなったねと金魚に語りたくなるような、作者の気持ちが自ずから出ています。
近藤も土方も石一葉落つ
なかなか洒落た表現ですね。近藤も土方ももう墓石になってしまった。そして今、秋の初め、一葉落ちてきた。「一葉落ちて天下の秋を知る」というのが「桐一葉」の大きな言い回しですが、これは秋を知って、それからまた百何年たってしまった。ということで、「近藤」「土方」という言い捨てもいいし、これもまた三多摩の方の感じがあっていいと思いますね。
山荘の一輪挿しの女郎花
これはひじょうになれていた句で、無駄がない。隙がないですね。しかも女郎花というのは割合大きなものですから、一輪挿しに入れる場合には、ほんの一部をふっと切った感じで、女郎花の風情はあまり出ていないんでしょうね。ただ「あ、女郎花。どこで?」「それね、裏の空き地の所にあったのよ。」といった会話も聞こえてくると思います。これは一輪挿しという小ささと本来女郎花は大きく咲き広がるものだというずれが、かえって面白い印象を与えていますね。
鶏頭をけばけばしとは疲れ哉
この句のいいのは、中七から下五にいくとこの断絶ですね。「けばけばしとは」で、大きなポーズがあって、「疲れ哉」「私疲れてるのかしら?」といういい方でいけるという強引な表現なんですが、俳句だとこれがわかるんですね。なかなかこれはうまい。