『ラウンドアバウト』を読んで 矢沢六平
届いた句集を読み了えて、付箋の付いた句を数えてみたところ、旅の句が多いことに気が付きました。句集名となった句もその中にありました。
まずはそれらを、掲載順に書き写してみます。
秋燕に出会ひし旅の終りかな
春寒し唐招提寺に人の無く
始発待つ春ストーブに二三人
新涼の谷間の宿へ着きにけり
秋高し火山情報出てをりぬ
山門を閉ぢて静かに春の暮
ポケットに帰りの切符春の旅
岬へと丘巡るバス秋暑し
初秋のブルートレイン出発す
早朝のラウンドアバウト旅の秋
手を頬に弥勒菩薩や春を待つ
春めきて笑ふ地蔵に出会ひたる
花の雨ガイドは傘をささずをり
焼菓子のありてロッジの窓の秋
缶みかん供へてありて地蔵盆
小春日や発掘調査捗りて
國栖奏の歌終わるとき鳥の声
大学で仏教美術か何かを専攻したお嬢さんなのかな。そんな人物像を思い描きそうになりますが、そうは単純には、問屋は卸してくれません。
やはり、ラウンドアバウト、が油断なりませんでした。
早朝のラウンドアバウト旅の秋 美穂
ラウンドアバウトの意味をとっとと調べればよかったのですが、変わったタイトルの句集だなあと思いながら読み進みこの句に出会い、さて句意が分からない。
早朝、とあるから咄嗟に思い浮かべたのが、ゴルフの早朝ラウンド。アバウトは、若者言葉の「適当・テキトー」の意か。
旅先でふと思い立ってゴルフをやりました。早朝でした。スコアにこだわらず大らかにプレイしたのが楽しかったです。
うーむ。何かがおかしい…。
そこでようやくラウンドアバウトの意味を調べ、分かりました。
これは、信号機のない、ロータリー形式の交差点のことなんですね。ヨーロッパによくある、慣れないうちはタイミングが合わず何時までも出られずにグルグル回ってしまう、ニューカマー泣かせのアレですね。
朝まだきのラウンドアバウト。車も人もほとんど通っていない。今、私は秋の旅の途次にある。
悪くないです。
でも、なんで句集名なんだろう。『蜜柑』(後述)ではなく、ラウンドアバウトを採ったのは何故なのか。
ラウンドアバウトに込めた作者の想いは何? 今回、その答えに行き着くことはできませんでしたので、来年また読み返して、ぜひともその真相に迫りたいと思います。
硝子戸の内いっぱいに冬日和 美穂
しつらへて客を待つ間の小春かな 美穂
まだ日ざし届かぬ庭の残り雪 美穂
これらの句に感じ入ったのは、作者の女性性の為である。作者は、「家」や「室内」と一体化している。これは、男にはない、女性性なんだと思う。
冬ぬくし日当りよくて手狭くて 高濱虚子
虚子のこの句は、自宅を詠んだものなのだろうが、招かれた家の様子を詠んだものだと解釈してもかまわないと思う。「家」と「自分」がそれぞれ客観化されて、別の存在になっている(分かり難い書き方しかできず申し訳ないです)のだ。
一方、美穂さんの句は、もっと「家」に寄り添っていて、自分と家の「区別」がないとさえ言える。これは、絶対に男にはない感覚で、また一つ、僕ら男に「女の秘密」を公開してくれた。
ある種の「心の手触り」に、じっと心の耳を澄ませた句もあった。よく伝わってくる佳吟である。
吐く息の白く暫くとどまれり 美穂
どんぐりを握ってをれば暖かし 美穂
ぼってりと革手袋の置かれある 美穂
季題を「研究」するのも句作の楽しみの一つかもしれません。そのお手本のようだと思った句がありました。
ブレーキの音の響いて賀状来る 美穂
賑ひて二日の中華料理店 美穂
物事の道理を説いただけなのですが、それがしみじみとした味わいとなる句。たとえば、生きかはり死にかはりして打つ田かな(作者失念)
美穂さんのこの句に、僕はそれを感じました。
雪として地に降り水に還りたる 美穂
そして、いよいよ「蜜柑」句です。
蜜柑蜜柑と声出しながら蜜柑剥く 美穂
この句を句集名にしてほしかったのは、僕だけではないのでは? 句集を読んだ全員が、きっとこの句が大好きなはずです。
たった今散りたる花を拾ひたる 美穂
これも、同じように好きです。
なんだか、「親戚中で一番可愛がっている姪っ子が久しぶりに家に遊びにきた。幼女から少女になって…」みたいな、胸キュンな感想を抱いてしまいます。違いますか、みなさん?
昔みたいにチュ〜してあげるから、叔父さんのお膝においで(と僕)。ギャー、気持ち悪い、ヤだよ〜(と逃げ回る姪)。てな妄想を、読後に致しました。
僕達に幸せな読後感を残してくれる名句ですね。
読ませてくれて、ほんとにありがとう!
最後にもう一句。
橋渡る人の影ゆく冬の水 美穂
このところ古句に興味がある僕には、大変心惹かれる句でありました。簡潔にして格調があると思います。