前回は「けり」でけりを付けたが、今回は「き」。
「けり」と同様過去の助動詞だが、「けり」は間接体験であるのに対して「き」は直接体験であることは
既に述べた。
『五百句』中には六句登場するが、いずれも連体形の「し」の形である。
間道の藤多き辺に出でたりし 虚子
山のかひに砧の月を見出せし 々
さしくれし春雨傘を受取りし 々
百官の衣更へにし奈良の朝 々
行人の落花の風を顧みし 々
夏草に黄色き魚を釣り上げし 々
連体形というのは当然ながら体言(つまり名詞)を修飾する形。
三句目「さしくれし」は直接「春雨傘」を修飾している。
「春雨傘」それはどんな「春雨傘」かと言うと、「(誰かが)さしかけてくれた」「春雨傘」であって何物でもない、
という構造だ。
その中での「き」の働きは、「さしかけてくれる」という現在形ではなくて、「さしかけてくれた」と過去の
直接体験としているところにある。
四句目の「衣更へにし」の「し」も「奈良の朝」を連体修飾している。
すっかり「衣更」を了えて南庭に居並ぶ「百官」の姿が過去のものとして、きちっと表されている。
ところが四句目以外の句末の「し」には若干の解説が必要かもしれない。
散文とも違うので厳密には言えないのではあるが、本来句末は「終止形」で終わる。
ただし「係り結び」のように特殊な場合は連体形や已然形で終わることもあるが、
それには「係りの助詞」が必要だ。
では「し」は誤りか。
結論を言えば「こと」という体言が省略されていると考えるのが具合がいいのだろう。
一句目で言うなら、
ある目的地に向かって歩いて行くのに、途中からう ろ覚えの近道に入ってみた。
随分と狭いところもあったが、急に前が開けて「本道」に出たところ、そこは 以前から知っていた、あの、
「藤の多い」あたりであったことよ。
となる。つまり「出でたりし」は「出たことよ」となり、「出た」という直接体験の直叙より、それ以前からの
「出来事」全体をまとめて表現したことになる。
そのあたりは「出でたりき」と比較してみると良くわかる。
しかも終止形で終わらないことの効果は「係り結び」のそれと同等だ。
二句目以降も、「見出したことよ」、「受け取ったことよ」、「顧みたことよ」、「釣り上げたことよ」となる。
特に「釣り上げし」などそれ以前から「何が釣れるのか」と秘かに興味を持って見ていた
作者の心持ちが出ていて、「し」ならではの感が深い。 (つづく)