花鳥諷詠心得帖28 三、表現のいろいろ-4- 「字余り(中七)」

前回の宿題の答え。
「中七」字余りの例を六句示して、字余りが有効に作用している理由を考えて頂いた。
どうか前項をご覧下さい。

答えは字余りによって「上五」「中七」が大きく一塊として認識されている、ということ。
その効果をより有効にするために「中七」の末尾は大きく「切れて」いる。
即ち「空や」、「はじまるや」、「終んぬ」、「鳥や」、「人や」、「思ふ」。
すべて「や」の切れ字か動詞の終止形なのだ。
そして、これまた「二物衝撃」の効果で季題が鮮やかに表現(山吹の句については「青さ」が)されている
と言うことになる。

「中七」字余りは、『五百句』中まだ十例ある。これらに納得のいく理由を付けるのはこれでなかなか難しい
(まあ当然と言えば当然。そこが虚子の天才的なところなのだから。)それらの中で次の二例は何となく解る。
蚰蜒を打てば屑々になりにけり 虚子
雪解の雫すれすれに干蒲団 々
これらは問題の「字余り」部分に「屑々に」「すれすれに」という擬態語を含んでいる。
そして、その擬態語の効果は「字余り」のフレーズの中で一層増していると思われる。

「打てば屑々に」のやや間延びした時間の中に、丸めた新聞紙を振り上げて半狂乱になって蚰蜒を打つ
女性の姿がありありと見える。
そして「下五」の「なりにけり」が、我に還って「屑々に」なった蚰蜒を見下ろしている女性の虚脱感と
顛末の終局を表現している。

一方「雪解の」の方も「雫すれすれに」と時間をかけて丁寧に表現することで一粒々々の雪解雫の様子が
まるで焦点のぴたっと合った映像のように見えてくる。
どちらの例も七音が八音になる物理的な時間の長さが表現の効果を高めているように思われる。
このことは日本の短詩型にとっては存外重要な問題で、朗詠に一定以上のゆるやかな時間を
費やすべきであることと趣を同じくしているが、詳しくは別の機会に譲る。

また、
叩けども叩けども水鶏許されず 虚子
蛇穴を出てみれば周の天下なり 々
の二句については、「中七」の真ん中に大きな断絶があって、もともと五七五の感覚の薄い表現であった。
つまり一句目は「叩けども叩けども」と「水鶏許されず」。
二句目は「蛇穴を出てみれば」と「周の天下なり」の二つの塊が強く表現される中で、
結果として「中七」のリズム感覚が薄れてきていたのだ。
こうした構造が字余りを呼びやすいとは言えそうだ。

瓢箪の窓や人住まざるが如し 虚子
これは次回取り扱う予定の「下五」字余りの例。
同様にこれも「中七」中に大きな断絶がある。
しかも「下五」字余りがその断絶を強調している。 (つづく)