花鳥諷詠心得帖9 二、ことばの約束 -1- 「文語と口語」

「用意の品」が整ったら、早速吟行会・俳句会に参加してみるのが「手取り早い」。判らないことは周囲の人に聞けば良いのだ。二度や三度失敗したってどうということもないし、それで閾が高くなるような「スマシた句会」など「惜春」には無いはずだ。


さて、そこで今回からは「ことばの約束」。
別に「約束」などといっても、法律でもなければ、モラルでもない。いずれ俳句も文芸である以上、言葉を「道具」あるいは「表現手段」として自由に用いて宜い訳で、の用る際の、およその「目安」を、幾つか挙げて置こうというのだ。

文語と口語
世の中には「文語」と「口語」という区別があって、「文語」というと何やら、ひどく古めかしいもので、日常生活からは大きくかけ離れ、若い世代の人たちにはちんぷんかんぷんで、やがては滅び去りゆく物であると考えている向きも少なくない。しかし、一寸考えれば判るように、全く別の言語体系が並立しているわけでは勿論無いのであって、多くの部分、否、殆どの部分で「文語と「口語」は共通しているのである。

当たり前のことで同じ日本語であるわけだから、その「ズレ」は洵に些少と言える。早い話が「ちち」も「はは」も「やま」も「かわ」も、文語であるし口語でもある。その微かしかない「違い」は充分学習可能の範囲内なのだから、「文語」は教育すれば、必ずマスター出来る。

因みに筆者自身一九四五年生まれで、まさに「戦後教育」だけを受けて来た訳だが、「文語」をマスターとは烏滸がましいが、少なくとも「違和感」は感ぜずに日々を暮らしている。
「もう、これからの若い人には文語は無理だから、俳句も口語でつくりましょう」なんて妙に迎合的態度をとる俳句指導者がいるが、それはおかしなことだと思う。

「ことば」は確かにどんどん変化している。それは昔からのことなのだ。例えば『枕草子』百九十五段の、なに事をいひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにとせんとす」といふと文字をうしなひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」などいへば、やがていとわろし
に見えるように、すでに平安時代にも「ことばの乱れ」はあった。

「と文字」を省いた少々下品な言い方が蔓延して、其れを清少納言は非難ししているのだ。
ところがその誤った語法もやがて「むず」という助動詞として認知され、現在の学校教科書にもちゃんと登場するのだ。丁度、現今若者の「ラ抜き言葉」が糾弾されているのに似ている。     (つづく)