透明な水へ金魚を放ちけり 高瀬竟二(2011年11月号)

季題は「金魚」。昔は「金魚売り」が金魚の桶を担いで町中を売って歩いていたものだが、そんな景色は絶えて無くなった。掲出句、どんな場面を想像してもよいのだが、私の心に浮かんだ景はこうだ。庭に古くからの金魚鉢が出してあって、布袋葵なども浮かべてある。その鉢の水がだんだんに緑色に濁ってきて、最近は浮かび上がった金魚は見えるものの、底深く沈んだ金魚はその姿を見ることもできない。そこである時、水を替えてやることを思い立ち、水道の水をポリバケツに溜めて置いておいたのだ。二三日経って、ポリバケツを金魚鉢の隣に置き、小さなタモで(あるいは何か台所で使う笊なんかかもしれない)、濁った鉢から金魚を掬いとってポリバケツの水に移してやった。その瞬間、金魚は「透明な」水に浮かぶような、あるいは水中を飛ぶような姿にありありとみえたのである。「透明な水」の中を駆け回る光線、その光線に照らされて、「金魚」は、いままで見せたこともない鮮やかな色調を作者に見せた。その瞬間の映像だけがこの句の内容である。

この句は、この場面に至った経緯については何も触れていない。余計な「事柄」はすべて省いてしまった。そこにこの句の強さがある。(本井英)