花鳥諷詠心得帖3 一、用意の品 -3- 「句帳」

立子先生がお元気だった頃、ある時、何かの拍子に、先生の「句帳」を見せて頂けることになった。笹目の俳小屋の地袋のような所に、行李に入っていたように思う。あるいはトランクであったかも知れない。ともかく二三百冊の「句帳」が几帳面に保存されていた。「句帳」のサイズは今でも玉藻社・花鳥堂で売っている小振りのものだった。

筆者も同じ「句帳」を現在使用中。一三一冊目が終わろうとしている。「吟行」が作句の中心舞台となってからは「句帳」は必需品となったが、明治時代、主として題詠が行われていた頃には「句帳」という感覚は無かったらしい。

筆者が一見した明治期虚子の「句帳」は「帳」ではなく、只の「半紙」だった。俳句会に臨んでは手近の「半紙」に出来た順に句を書き付けていた。ひとしきり書き付けると、さらに行間なども利用して「半紙」に二十句位は書き付けてあった。本来保存する気持ちも薄かったものであろう。筆者の一見した数十枚は希有な例であったのかもしれない。

その後虚子自身の発案で「吟行」が増えると、自ずから「句帳」も必須アイテムになった筈だが、虚子自身に「句帳」を保存する習慣は無かった模様だ。虚子の『俳談』に「句帳」という文章があって、その辺りの事情が詳しく書かれている。前回でご紹介した虚子最後の「句帳」は虚子によって捨てられる事もなく、現在無事に芦屋虚子記念文学館に展示されている。

「吟行」全盛の現代の俳人は皆「句帳」を持っているのかと思っていたら、興味深い話をある方に伺った。それは森澄雄氏とそのお仲間の吟行の話。三四人で奥多摩にでも「吟行」に行った一行は、ただ黙って野山を歩き、宿に着いて、風呂など浴びた後、画帳のようなものを取り出して、全員で一冊のそれに順にその日の収穫を書き記していき、書く句が無くなったところで、各自による句評がなされるのだそうだ。

つまり心の中に一日中温めて置いた句を順番に吐き出していく訳らしい。筆者など作句を覚えていられなくて、風呂など浴びたら全部忘れてしまいそうだが、その方のお話では、夜まで覚えていられない程度の句は意味がないのだそうな。俳句の世界も色々で、そんなやり方もあるらしい。

我等の仲間には句帳に「言葉」を断片で書き付けている人も見かけるが、私はそれはしない。十七字になってから書き付ける。「諷詠」の心構えを大切にしたいからだ。そして推敲によって語順などが替わった場合は、新たに次の行に書き直す。従って似たような句が何行にも書かれていたりすることもある。