花鳥諷詠心得帖2 一、用意の品 -2- 「書く道具」

さて筆記用具というのは「書く道具」の謂いか、「書かれる道具」の謂いか。判然しないが、取り敢えず「書く道具」から考えてみよう。

「書く道具」。筆者は現在、句帳に書く時は「鉛筆」(句帳に附いている小さいやつ)、 句会短冊に書くときは「筆ペン」、清記・選句用紙には「筆ペン」を使用している。 近年の「筆ペン」は随分と品質が良くなって、結構細い字まで書ける。 勿論結構大きい字でも書ける。その辺りが「筆ペン」の良さだろうか。 さらに「筆ペン」は必ず「濃く」書ける。
老来、目がしょぼしょぼして来ると「薄い字」がまず苦手になってくる。特に夜分はそうだ。 ともかく「墨」とは偉大だと思う。 スタイルに拘るなら、「矢立」を持って歩いて、徐に一句なんて言うのも魅力的だが、メンテナンスが面倒だ。
一々綿に墨汁を補給するなんてことは筆者には出来ない。 勿論万年筆党も少なくないだろう。「良い万年筆」に当たれば結構だろうが、どうも筆者は外れがちだ。 使い方が下手なせいもあるのだろう。「ボールペン」を使う人はどのくらい居るだろう。
あまり見かけぬが。 かつて一度「ライト付きボールペン」なる物を頂いて使ったことがある。 ペン先近くに小型懐中電灯が灯る仕掛けで、闇夜の中でも句帳に句を書くことが出来るのだ。 初めは面白くて、わざわざ「闇」を求めて作句したりしたが、結局面白すぎて「句」が落ち着かなかった。 「闇」で心に浮かんだ十七音を最寄りの外灯までゆっくり吟味・推敲しながら歩いて 「句帳」に書き付けた方が、却って結果は良いようである。
虚子の最晩年の句帳というのが残っていて、その小振りの学習ノートに紐で結びつけてあった鉛筆が忘れられない。 すっかりチビていて、紙質の悪いノートに俳句が薄く書き付けられていた。亡くなった野村久雄さんの話しに、先生ご自身その薄い字がお読みになれなくて、 久雄さんに「読んでくれ」とおっしゃった事もある由。
これは直接俳句会や吟行の話ではないのだが、近年はパソコンが発達して、 「俳句」などは最もそれと遠い世界かと思っていたら、そうでもなかった。 実を言えば「桜山より」(註:『惜春』における本井英近詠のタイトル)も自宅のパソコンで打っている。 従って、原稿用紙にペンではなく、ディスプレーにキーボードという訳だ。 決してパソコンが上手ではない私でも、ペンで書くよりは余程早く書けるので重宝しているが、俳句を「横書き」で打ち込むのだけはやってて、気持ちが「辛い」。 書き終わって、「縦書き」に変換してやっと「落ち着く」。 若い友人達がメールで送って来る俳句も全て「横書き」最近はやや馴れてしまった。