課題句「夏場所」 木代爽丘 選 高櫓仕立ていよいよ五月場所 柳沢晶子 櫓太鼓大川超えて夏空へ 夏場所や呼び出し吾郎も幟旗 久保北風子 夏場所の両国駅ぞ古るびたる 本井 英 呼出しの声夏場所の初日かな 牧野伴枝 夏場所や高く四股踏む朝稽古 大山みち子
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本土より四国山地や初明り 梅岡礼子
季題は「初明り」。「元旦、東天の曙光である」と「歳時記」は解説する。「曙光」は『広辞苑』では「①夜明けのひかり。暁光。②暗黒の中にわずかにあらわれはじめる明るいきざし」と記す。因みに『新明解国語辞典』では「まっくらな中に見え始める、夜明けの光」とあり、東の天空には、既に「明るさ」が漂い始めていながら、地上には未だ「闇」が蟠っている状態であることが判る。季題「初明り」については、筆者も従来「初日の出」と大して変わらないような印象を持っていたが、大いに間違っていた。つまり作者は闇の中に佇立しながら遙か彼方、暗黒の「四国山地」を望みつつ、天空に兆し始めた曙光に心奪われているという状態なのである。さてこの句の問題は「本土」なる措辞。これも辞書的には「植民地と違って、その国の産業・経済・行政上の中心となる国土」の謂となり、我々の脳内には「本土決戦」とか「本土復帰」といった言葉が交錯する。即ち「四国」は立派に「本土」そのものであり、「本土より」眺められるべき存在ではない。それを言うなら「本州」(日本列島中、最大の島としての)より、とすべきところである。ある意味では明らかな言葉の「誤用」がある訳で本来なら鑑賞の対象たり得ない句、ということになる。しかし、どこかこの句が筆者を惹きつけた。それは何故か。それは「四国」という地方に対する、なんとなく抱く印象に「本州」とは何か根本的に異なるものを感じているからに違いない。それは現代に於いてというより、日本の「古代」に於ける地域感覚を想像しているからかも知れない。四国と言っても瀬戸内海に面した地域は、九州と大和とを結ぶメインルートとして、如何にも「開かれた」感じを漂わせているのだが、その南に聳える「四国山地」から土佐にかけての地域には文化的にも大きな「隔たり」を筆者は感じてしまう。古代の日本を考える場合、現在のような「北」を上にする日本地図は不向きで、むしろ「南」を上にする地図の方が、「大陸」との相対関係が判り易い。つまり「山陰地方」は大陸に向いた「玄関」側、そして「四国山地」の南方は、「奥のまた奥」となる。そんな「古代人」のような感性をもってこの句を再読してみると、「本土」と「本州」の誤用も含めて、「ある感じ」を伝えてくれる。しかも「初日」ではなく「初明り」であることにも摩訶不思議な、何か恐ろしい「未知」のようなものまで感じることが出来る。語句の誤用を許容して良いかどうかの問題は、一旦脇に置いて、気になる句であったし、ともかく「景」が見えた。(本井 英)
雑詠(2024年5月号)
本土より四国山地や初明り 梅岡礼子 初明り島うすうすと浮かみくる 庭ごとに柚子のたわわや旧街道 冬菜畑母屋と納屋に挟まれて 弥撒終へし神父囲みて御慶述ぶ 原田淳子 縦に引く箒清しや五月場所 山口照男 鰹節のかをりがずつと南風の町 藤永貴之 ふるさとの橋の上なる御慶かな 田中 香
主宰近詠(2024年5月号)
春水舌を 本井 英 民家園のほまち仕事の接木鉢 春田なる白鳥向きをばらばらに 垂るる雲に頭つつかへ斑雪山 雛飾足裏冷たく拝見す 雛道具に怠るまじき琴棋書画 うすら日に浮き上がりくる雪景色 雲中に日の明るさや揚雲雀 昇りつめてじれてをるなり揚雲雀 落椿をお狐さまの頭にちよんと 岬径のだんだん高し赤椿
芍薬の芽立ち仏の座が囃し 鷹部屋に鷹の剝製春寒し 引き堀の土手に貼りつき金瘡小草 貝母咲く高さを風の流るるよ ちりちりと蓬ぞ摘めば楽しからむ 父と子に脂魚が釣れて春の風 鴨は背の春水の珠ふり落とし 青柳に新幹線の橋はるか 河上の連山霾に閉ざされて 崖下の春水舌を垂れやまず