第零句集(第二集)」カテゴリーアーカイブ

原三佳『赤と青』鑑賞 (原昇平)

原三佳『赤と青』鑑賞 原昇平

 原三佳さんの句集『赤と青』を拝読した。自跋で「細々ながらも俳句を通じて日々を写し取っていくこと」の貴重さについて言及されている。(多くの方が首肯されると思うが、私もまったく同感である。)そうした日々のなかから編まれた本句集で最も印象に残った一句を挙げるとすれば、「風花のそれと気がつくまでの空」であろう。2012年の「夏潮」新年会での出句で、当日の句会でも好評句であったと記憶している。集中で改めて拝見して、本句集の代表句(の一つ)という感を強くした。「風花」の句を含め、印象深かった句をいくつかご紹介したいので、しばらくお付き合いいただければと思う。

 

大小の麦稈帽が庭仕事 三佳

季題は「麦稈帽」。休日の庭に親子がいる。庭木の手入れなのか、草むしりなのか、家庭菜園の水やりなのか、揃って麦稈帽をかぶっての庭仕事。「が」という助詞が、心理的な距離を「近く」し、句に動きを与えている。「麦稈帽の」とすると、客観的に叙した印象になり距離感が生まれる。また、「の」の場合は下五の「庭仕事」は名詞であるが、「が」とすると「をしている」を省略した動詞になり、一句全体に動きが出てくる。

 

熊避けの鈴の音吸うて山眠る 三佳

季題は「山眠る」。紅葉の時期を過ぎた山に登る。登山客はほとんどおらず、しばらくは誰ともすれ違わない。登るにつれて気温は下がり、熊避けに身につけている鈴の音は、山に吸われて消えてゆく。「吸つて」ではなく「吸うて」という措辞が、山の眠りを妨げないようにしている。

 

つなぐ手もつながるゝ手も悴める 三佳

季題は「悴む」。どうにも寒くて手が悴む。手をつなぐと、わが子の手も悴んでいる。「つながるゝ手」という表現から幼い子の小さな手が見えてくる。「悴む」というのは自身の感じる身体の「動かなさ」であり、例句としても「自の句」が多く、一方、「他の句」のなかには悴みを想像で詠んだという印象の句がある。掲出句は、自らの手とともに子の手の悴みも詠んでいる「自他半の句」であるが、手をつなぎ、手袋越しではなく直接に触れ、子の手のほうが冷えていると感じ、自らと同じように悴んでいることに気づいたという、実景が詠まれている。

 

風花のそれと気がつくまでの空 三佳

季題は「風花」。よく晴れた冬の日。何か、肌に触れるものがある。空を見上げると雪片が舞っていた。風花なのだと気づく。風花の舞うまでの空を叙すことで、風花を風花と認識するまでの「一瞬」の過程を詠んだ句。現代語的、あるいは口語的な叙し方が風花に辿りつくまでのゆるやかな思考の流れを、また、中七から下五での「句またがり」が風花に気づくときの心理的な動きを感じさせる。情緒に流れがちな季題と距離感を保ちつつ情感を失うことなく詠みとめ、俳句では使うことの少ない代名詞をも無理なく用いた、特筆すべき一句。

 

春の朝乳歯ぽろりと抜けにけり 三佳

季題は「春の朝」で「春暁」の傍題。「朝」は、夜の気配の残る間(あわい)の時ではなく、日が昇り、活動の始まる時間である。朝の支度をしていると、起きてきた子が、歯が抜けたという。抜けた歯は、屋根の上か縁の下に投げられるのだろう。成長を確認する季節としての春の一句。

 

 最後になるが、ほかに鑑賞したかった句を記して結びに代えさせていただく。

 

『赤と青』抄 (原昇平選)

山梔子のゆるびすぎたる花弁かな

朝顔の赤は妹の青は僕の

産土の稲穂神社よ秋日濃し

ゆつたりと奏づるごとくスキーヤー

人怖ぢをせぬ鳩とゐて春の午後

夏蝶にハーブの花の細かすぎ

掃き寄せてまた木犀の香るかな

賽銭にどんぐり混ぢる地蔵かな

薄氷をぱりと踏むぱりゝんと踏む

庚申塔馬頭観音里の春

(原昇平 記)

原昌平『夏暖炉』鑑賞 (原昇平)

原昌平『夏暖炉』鑑賞 原昇平

原昌平さんに初めてお会いしたのは、1998年の秋、千葉の鎌ヶ谷で梨狩りをした吟行会でのことであったと記憶している。インドに赴任中の同姓同名の先輩がいらっしゃると伺ってから1年半ほどして、ようやく「初代」にお目にかかり、それ以来、句会や吟行会でご一緒させていただいている。

これも「私の記憶では」ということになるが、集中の「田作の互ひ違ひに重なりて」は逗子の本井英先生のご自宅での新年句会の際に出句されたものだったかと思う。その当時、「俳句とはこういう事柄を詠むこともできる文芸なのか」、という感想を持ったことを思い出した。

(いずれも記憶違いだとしたらご容赦いただきたいのだが、)そんなことを考えながら『夏暖炉』を拝読し、印象深い句をいくつか鑑賞させていただいた。

 

夏暖炉会話途切れることもよし 昌平

季題は「夏炉」。本句集名のもとになった一句。避暑に訪れたロッジでは暖炉の火がゆっくりと燃えている。暖炉を囲みながら話題は尽きないが、気づくと会話が途切れていた。しかし、「気まずさ」を感じさせない沈黙というものがあり、そんな夜がある。

 

風鐸を鳴らしそめたる春の風 昌平

季題は「春の風」。仏堂なのか仏塔なのか、訪れた寺院に春の風が吹く。風鈴ではなく風鐸なので、実際には少し強い風なのだろう。しかし、単なる強風ではなく穏やかさが感じられる。それが春の風であり、俳人なのである。夏や秋、冬とは異なる、春に特有の風鐸の音色が聞こえてくる。

 

小春日の日本の空に帰り来し 昌平

季題は「小春日」。帰国便の機内でアナウンスが流れ、航空機が着陸態勢に入りつつあることが知らされる。窓から見える日差しは小春日。「機」や「便」という表現を用いずに詠むことで、一句の印象をやわらかく、穏やかなものにしている。機上から帰国を詠んだ句には「凍月に機首向けにけり帰国便」もあるが、こちらは航空機自体を詠んでおり、「凍月」によって機体のシルエットが夜空に浮かび上がる景が見えてくる。

 

秋の低く啼きゐる島の果て 昌平

季題は「秋の蟬」。訪れた島はさほど大きくはないのであろう。島の人々が暮らす地区を外れ、島を巡ってゆく。ひと気のない、島の「果て」に辿りついてみれば、すでに日は傾きはじめ、そこでは、決して高いとは言えぬ調子で秋の蝉が鳴き続けていた。蝉の声が「低」いのは、あるいは詠み手の心象だったのかもしれない。しかし、声の低さは「秋の蟬」の本意、本情の一つと言えよう。本句集には島が詠み込まれた句が多く収められており、作者の作句における「島」への関心の高さを窺わせる。

 

亀掻けば亀に従ふ春の水 昌平

季題は「春の水」。庭園、あるいは少し広い公園であろうか。池の亀がゆっくりと水を掻く。掻かれた水は波紋を生み、ゆっくりと広がる。水の抵抗などないかのように亀は泳いでいる。上五中七の「亀」の繰り返しに、春の水のゆるやかで素直な動きが感じられる。川では流れがあるので水は「亀に従」わない。

 

 最後になるが、ほかに鑑賞したかった句を記して結びに代えさせていただく。

 

『夏暖炉』抄 (原昇平選)

雨上がる四温の始め兆しつゝ

田作の互ひ違ひに重なりて

絵葉書を書いてゐる妻旅夜長

振り向けばタージ小春の日の中に

新しき家新しき暦掛け

ものの芽の赤みがかつて解けなんと

東京の西の外れの余寒かな

子等の手にかゝり薄氷散りぢりに

ごぼぼともこぽぽとも鳴り春の水

手をつなぐことなく向かふ入学式

(原昇平 記)

原三佳句集『赤と青』をクールに読む_(稲垣秀俊)

原三佳句集『赤と青』をクールに読む_(稲垣秀俊)

 

 第零句集参加者には、本井主宰との縁で俳句を始められた方が多いが、原三佳さんは、職場の先輩であった原昌平さんの勧めで結社に入られている。

 

 序文にて前北かおるさんが指摘されているように、本稿の中でまず人目を惹くのは家庭生活の句であり、生活者としての実感と健全さを読み取れる。

           掃き寄せてまた木犀の香るかな

           ついで煮のかぼちや一番人気かな

           ポッケからどんぐり除けて濯ぎもの

家庭についての句の中でも、特にお子さんに関する句が出色であると思う。

   一日で日焼けせし子の話し止まず

   朝顔の赤は妹の青は僕の

   ランドセル開けては閉めて入学子

以上の句が個人の家庭について詠まれたものであるにも拘わらず、他者の共感を得るのは、正確な描写があればこその事である。この描写力の基礎をなすのは、観察眼の公正さに違いない。

 

 無私な観察は、比喩表現を用いるならば不可欠である。比喩は主観の問題であるけれども、対象の特徴を正確に捉えなければ決して力のある句にはなり得ないからである。故に次に挙げる句は、原さんの真摯な観察態度を裏付けるであろう。

           磯ぎんちやく迷惑そうにすぼみたる

           ゆつたりと奏づるごとくスキーヤー

 

 以下は句毎に評を試みる。

   天気図の大きく貼られ登山小屋

本来、天気図は登山者自身で描くものだが、知識のない人や、気象通報の時間までに小屋にたどり着けない人もよくいるのであろう。遭難などされては山小屋もたまらないので、サービスとして天気図を出しているわけである。「大きく貼る」という表現の可否については議論がありそうだが、わざわざ大判の天気図を用意するほどであるから、富士山や表銀座などの人気コースであると考えられる。そうすると、登山小屋の賑わいや、天気図の前で進退を議論するパーティーの姿も自然と見えてくる。

 

   日傘派もサングラス派も交差点

日傘を好む人が、全体として落ち着いたファッションを志向する一方で、サングラスを好む人は活発さを滲ませるファッションを目指す。ゆえに日傘派、サングラス派は自然に峻別されるのだが、大都市の交差点では両者が交錯し、あるいは並び立つことも間々あり、作者はそこに面白さを発見したのである。「○○派」という思い切った表現の手柄である。

第零句集『赤と青』を読んで (前北麻里子)

第零句集『赤と青』を読んで (前北麻里子)

 

「原家に紙上ホームステイ」させていただいたき、ありがとうございました。はつらつとした、太陽のような三佳さん。世界を相手に仕事をこなすスーパーウーマンでありつつ、私にとっては母業先輩。母としての句が印象に残りました。

 

一日で日焼けせし子の話し止まず

保育園の遠足だったのでしょうか。太陽の下、一日遊び通した子供。その止まない話に、愛しい気持ちで耳を傾ける親。子供のころは、大人になってからの感覚よりも、時間を長く感じたような。この子にとっては、本当に長く、充実した一日だったに違いありません。きっと帰りのバスは寝てたんじゃないかな。

 

朝顔の赤は妹の青は僕の

弟妹の誕生を、素直に前向きに受け入れる幼い兄。母初心者の私は涙ぐんじゃいましたよ。その後、やっぱり全部僕の!ってなっているかもしれませんが。

 

春泥をほっぺにつけし笑顔かな

まだまだ肌寒い春先。さすがに水遊びはまだでしょうが、泥が頬に付くほど夢中で外遊びを楽しむ子供。春が来た喜びが、生き生きと伝わります。

 

娘二歳向日葵育つごとくあれ

明るく、強く、真っ直ぐに。二歳になった、夏生まれの幼い我が娘に望むのは、百合でも薔薇でもなく、向日葵らしさ、です。

 

ごきぶりに母とし装ふ平気かな

母は強し、ですが、やせ我慢も。明るい やせ我慢、面白いです。

 

賽銭にどんぐり混ぢる地蔵かな

子供の身近に、お地蔵様があるんですね。

 

笑い初めせむとて皆で笑ひけり

新年の、若い若い、明るい家族の風景。「笑い初め」という言葉自体、子供は初めてなのでは。

 

つなぐ手もつながるゝ手も悴める

小さい子供は、手袋を嫌がったりすぐに落としたりで、だいたい素手。そんな手も自分の手も、同じくらい冷たいと気付く。ふとした小さな発見。

 

ランドセル開けては締めて入学子

今までのものとは全く違う、特別な鞄、ランドセル。ばちん、ばたん、とせわしなく触らずにはいられない姿に、入学前のわくわく・そわそわが見られます。

 

てふ見れば蝶々歌ふ子らであり

しかも、ふわふわ踊っていそうですね。素直に明るく育っていることを目にした嬉しさ。

跋で、「四季は変哲なく巡って季題も又然りですが、その中で確実に育まれるものがあることを、とてもありがたく思います」と、三佳さんが書いています。全くその通りだと思います。『赤と青』は、生きる喜びにあふれた句集だと思いました。

インドでは、どんな俳句が生まれるんでしょうか。どんぐりは、落ちているんだろうか。明るく生き生きした毎日を送られることに、違いはありません。

零句集『赤と青』を読んで (矢沢六平)

 零句集『赤と青』を読んで

                  矢沢六平

 

 原三佳さんと初めてお会いしたのは、平成十六年の御柱祭山出しにお越し頂いた時でした。

 祭り繋がりのご縁だからでしょうか、句集を開くと、さっそく僕の目に祭の句が飛び込んできました。かれこれ三十年前、神田淡路町に住民票があった者として、町会神輿は担いだけれど明神様の宮神輿を担ぐ機会を得ないまま志賀高原石の湯へ去った者として、どうあっても見過ごす訳にはいかない句であります。

 

神輿渡御神田に町の斯くも多く

 ご承知の通り、神田には古い町名が沢山残っています。そぞろ歩きしながら、電柱に貼られた住居表示を読んでいると、いつまでも飽きることがありません。句は、それを言っているのですね。

 宮神輿とは別に、町会神輿がこんなに沢山出ているなんて、神田には一体、幾つ町があるのかしら……ではなくて、渡御の後ろをついて歩くうち、ふと電柱の住居表示の多彩さがに気が付いたんですね。祭を楽しみつつ、ちゃっかり別のことも秘かに「面白がっている」のは、俳人ならではのお洒落な感性です。

 

一日で日焼けせし子の話し止まず

 その子供は、お風呂に入ってご飯食べ終わっても、まだ興奮さめやらず、なんですね。下五の字余りは、作者の感懐をよく言い表して、効果的だと思います。

 

無造作に銀杏掃いて庭師かな

 プロだからこそ、無造作、なんですよね。

 

一ト山を拓きし宅地狂ひ花

去年土筆摘みし建設現場かな

 ここには「文学」があります。テーマは、宅地開発というものに対するかすかな違和感。「狂ひ花」という季題のチョイスと、土筆摘みしの「し」の過去形に、それを感じます。

 

ゆつたりと奏づるごとくスキーヤー

 年配のスキーヤーなのかもしれません。今風のエッジで「切る」スキーではなく、昔風のテールをずらして「回す」ことでターンするスキー。ワルツみたいで、とても優雅です。

 

探梅と新居まはりの探索と

 周辺に梅が咲いている(かもしれない)環境の土地に新居が建ったんですね。「探索」という言葉を選んだことで、ウキウキ感を出すことに成功しました。「探梅」「探索」とタンで頭韻を踏む効果に言及する向きがあるかもしれませんが、この句の場合は、その見方に僕はあまり与しません。

 

手付かずの庭にものの芽新居なる

 春近し、の歓びがよく伝わってきます。

 

磯ぎんちやく迷惑さうにすぼみたる

 え、またでっか? 堪忍してや。わしら、触られると、シュッとすぼまりまんねん。知ってまっしゃろ。え、また?

ボン、ほんまにもう勘弁してくんなはれ。…。(大阪弁、あってる?)

 

天気図の大きく貼られ登山小屋

 天気図が「大きく」貼られている、と言っただけで、機能一点張りで無骨、存外安っぽくてチャチ、そんな調度品の数々が見えてきました。不思議ですね。登山をしたことはないのだけれど、登山小屋ってきっとそういう感じなんだろうと思いました。

 

放たれて流灯寄る辺なく揺るる

 何だか去り難い気分になっているんですね。流した本人も「寄る辺なく」佇んで流灯を眺めている。

 

天高しレジャーシートのやや狭く

 もしかしたら使うかもしれないと思って持ってきたレジャーシート。だからちょっと小さい。でも、その狭さがかえって楽しい。(三人家族かな…)

 

賽銭にどんぐり混ぢる地蔵かな

 里のお地蔵さんですね。山中や峠ではない。

 

べきことをほぼ了へ仕事納めかな

 少しやり残したことがある、というのが、いかにも会社員の仕事納めだと感じました。どういうわけか、「to doリスト」なんて言葉が思い浮かびました。

 

パソコンの画面明るき事務始め

 mixi句会でコメントを書いた記憶があります。特選句にコメントを付けるのがルールだから、その回の僕の特選だったのだと思います。いつもよりパソコンの画面が明るく感じられたんですね。まさに仕事始めの、清々しい気分に充ちています。

 

薄氷をぱりと踏むぱりりんと踏む

 薄氷にそっと靴裏を当てたら「ぱり」っと音が伝わってきた。何だか不意に楽しい気分になってしまい、もう一度(今度は別の場所を)もう少し強く、「ぱりりん」と踏んでみました。踏んでいるのは子供ではなく、いい大人、ですよね。

 

ものの芽の緑は緑赤は赤

 飼い犬を放してやるために、よく裏山に行きます。先だって、赤黒い枝の冬芽は赤黒い色をしている、濃緑の枝の冬芽は濃緑色をしている、という発見をして少し興奮しました。でも、句にできませんでした。さすがです。そのまんまを言えば、それで十二分なんですね。

 

ランドセル開けては閉めて入学子

 一年生〜になった〜ら〜♪ もう楽しみで、楽しみで、仕方ないんですね。イッツ・ソー・キュート!

 

てふ見れば蝶々歌ふ子等であり

 子供は脳の回路がまだ単純だから、見たこと、思ったことを一直線に、そのまま口にしたり行動したりしますよね。そこんとこ、愛すべし、なのであります。

 

 前北かおるさんの序文にある「原家への紙上ホームステイ」を、存分に堪能させていただきました。二人のお子さんを知っていることも手伝い、心がほっこりして、とてものびやかな心地に浸れる、本当に楽しい句集でありました。

 三佳さんは近く、インドに赴任されるとか。

 しばらくお目にかかれないのは淋しいけれど、誌上、WEB上できっとお会いできるのだと思います。今度は僕のまだ見知らぬ国インドで、句上ホームステイさせて下さい。僕は今、とても待ち遠しい気持ちでいっぱいです。

 一路平安。よっきとスースーの、諏訪の小父さんより。