夏潮の書棚」カテゴリーアーカイブ

夏潮会の会員の句集などを紹介します。

石神主水『神の峰』鑑賞 (渡辺深雪)

石神主水『神の峰』鑑賞 (渡辺深雪)

 

筆者と石神氏との出会いは古い。同氏の句作に対する姿勢から、筆者は多くのことを学ばせていただいた。その姿勢は、以下の句にも表れている。

 

永き日の磨きこまれし廊下かな  主水

朝涼のロッジの窓を開け放ち

 

 いずれも季題の持つ気分がよく伝わり、景の見える句となっている。このように石神氏の作る句は、客観写生の理想とも言える形を我々に示してくれる。

 

 ところが、同氏の句にはこの客観写生という枠組みにおさまり切らないものも多い。

 

幸せな恋などなくて業平忌    主水

春風のやうな別れでありにけり

 

 季題を生かし、景が見えるように作っているだけではない。心の中からほとばしるものをこれらの句はそのまま詠みあげているのだ。こうした思いの強さが、実は俳句に生命を吹き込むものではないか、と考えさせられる。

 

 この一見相反する二つの要素が互いに作用し合い、そこから次のようなドラマ性のある句が生み出される。

 

ろうばいの林は夢のごとひらけ 主水

弾痕の激しき保塁秋の雨

 

 日本の詩歌が持つ本質のようなものを、石神氏の句は垣間見させてくれる。本業である考古学の研究と共に、同氏の句作のさらなる深化に期待したい。

 

 

てらてらとおかめの顔や酉の市 主水

 「てらてら」という擬音の使い方が上手い。おかめの面を露店の灯が照らす様子を見事に表しており、なおかつお面のつるりとした触感まで伝えている。安っぽい光に浮かぶ、少し間の抜けたおかめの顔は、この行事が江戸の庶民の楽しみであったことを思い起こさせる。

 

やすらぎといふ紅茶買ふ寒さかな 主水

 「やすらぎ」とは、紅茶の商品名なのだろう。作者はその名前にひかれて買ったのだが、この言葉からはかえって冬の厳しい寒さや殺伐とした情景などが想像できる。作者は熱い紅茶を飲んで、文字通り心の安らぎを得ようとしていたのではなかろうか。ひとつの商品に籠められた思いが、句に奥行きを与えている。

 

雛くるむ古新聞の昭和かな 主水

 親の代に買ったとおぼしき雛人形を、古い新聞が包んでいる。これをめくろうとすると、ふと日付に「昭和」と書いてあるのが眼に入った。記事には「ソ連」という今はなき国名も記されていたのだろうか。人形を囲んだ人々の温もりと記憶が、色あせた新聞紙から伝わって来る気がする。

 

キャンパスのなか風薫る君たてば 主水

 「風薫る」は夏の季題。句中に登場する「君」は女性であろうと思われる。校庭のベンチからこの女性が立ち上がろうとすると、そこへ柔らかな風が吹いた。初夏の明るい情景が似合う人なのだろう。薫風に吹かれて立つその姿が、いかにも若々しくて素敵だなと作者は思った。季題を通じて、青春の景を鮮やかに描き出している所が心憎い。

 

落人の湯のとめどなき秋の草 主水

 季題である「秋の草」から、何となく山奥のひなびた温泉が想像できる。昔、残党狩りを逃れた落武者がここで戦の傷を癒したのだと、作者は言い伝えから聞いた。今では、落人の浸かった湯だけが草の合間にこんこんと湧いている。秋草の生える情景が、落人の伝説とも重なって何とも物悲しい。

 

大吉のみくじ頼りの今朝の春 主水

 季題は「今朝の春」。年が明けて、初詣に来た作者は、おみくじを引いて新しい年の運勢を占おうとしている。だが、それにしても「頼り」という表現が気になる。作者は前の年から悩むことがあって、すがる思いで詣でたのではないか。そう考えると、「大吉」という言葉に新年への切なる思いが籠められているのが分かる。

 

夜濯の音を聞きつつ旅寝かな 主水

 真夏の旅先での光景。民宿とおぼしき滞在先での夜もふけて、作者は床に着いた。すると外の暗がりの中から、じゃぶじゃぶと何かを水で洗う音が聞こえた。どうやらこの家の誰かが、昼の暑さを避けて洗い物をしているらしい。この水音を聞きながら、何とも風情があっていいなと、作者は思った。静かな旅の味わいが、水音を通じて感じられる。

石神主水 第零句集『神の峰』鑑賞(磯田和子)

石神主水 第零句集『神の峰』鑑賞(磯田和子)

 

夏潮誌上に連載中の『時を掘る』を毎月楽しみに拝読しております。

季題になっている古い慣習や、私たちの生活に欠かせないが今や古くなってしまった物、それらにまつわる話が興味深く書かれており、つい引き込まれて読んでしまいます。

考古学者でいらっしゃる主水さん。発掘作業を通して古い時代のさまざまな物と出会っておられるのでしょうか。研究者の目で見て感じた世界を詠まれた句などもあるのでしょうか。『神の峰』という題名にも興味が湧きます。さっそく読み進み、魅かれた句をいくつか挙げてみたいと思います。

 

 

爽やかにふりかへらずに生きたくて

 

秋の澄みきった大気のなか、身も心も健康で明日への希望に満ち溢れている青年の姿が見えるよう。爽やかとは晴れ晴れとした彼の心持である。これから歩いて行く人生を悔いの無いものにしたいと、声高ではなくさりげなく宣言している一句。

 

 

心あてにバレンタインの予定あけ

 

キリスト教の司祭にまつわる記念日が、日本では女性から男性へチョコレートを贈る日としてすっかり定着したバレンタインデー。今や意中の男性へ思いを打ち明けるというものばかりではなく、義理やら友情やらさまざまあって、特に若い女性の間では早春の一大行事となっている。

さて掲句、若い男性が意中の彼女からの「本命チョコ」を期待してその日の予定を開けたという。心あてに待っている彼の気持ちが何だかいじらしく感じられて。さて、結果は如何に。

 

 

病窓の日のやはらかに蕗の薹

 

春の初めいち早く大地に黄色い花芽を出す蕗の薹。長かった冬が終わり、療養中の窓辺へやわらかな早春の光が射し込んでいる。そこから見える庭や近くの畦道には蕗の薹が顔を覗かせて春の訪れを告げている。春は生気が満ちて来る季節。やわらかな日差しが日一日と強くなるにつれ、病も確実に癒えてゆくだろう。蕗の薹が明るい予感をもたらしてくれるかのよう。

 

 

下闇の先行く君の腕白し 

 

何人かで明るい日差しの下を歩いていたのが、急に薄暗い下闇の中へと入った。鬱蒼とした木立の下をずんずんと先へ歩いて行く君。薄暗い中ノースリーブから覗く腕の白さが一層際立って見える。君の素肌を意識して少しくドキッとしたのかも。

 

 

宮南池訪えば柳の風涼し

 

宮南池は韓国の百済時代の遺跡にある人工池。日本書紀にもその造形技術の記載があるとか。この句と前後の句は韓国で詠まれたもの。研究の為、暑い季節に彼の地を訪れたのだろうか。池の傍の柳を揺らす風が涼しいことよと。「涼し」は宮南池への挨拶でもある。

 

 

さて、次の三句、何かしら心穏やかならざる事がおありだったよう。

 

あてどころなき怒りもて熱燗を

 

持って行き場の無い怒りを抱いた胸に、熱燗の一杯はさぞや沁み渡ったたことであろう。

 

 

やすらぎといふ紅茶買ふ寒さかな

 

紅茶の銘が「やすらぎ」とは。暖かい部屋でいただけばほっとした気分にもなるだろうと思わず買い求める。心が寒い日。

 

 

この心見ぬかれぬやう懐手

 

心のうちに抱いているのは何かしらの企み、それとも相手を嫌悪する気持ちであろうか。見ぬかれまいと身構えるように思わず懐手をしたのだ。

 

 

木の芽吹く雑木に君のかくれてゐ

うち寄せる春潮おしやべりなほどに

 

木の芽、春潮、春の季題が恋心を詠っている。二人の幸せな時間。

 

 

でも、

幸せな恋などなくて業平忌

 

伊勢物語の昔から、上手くいく恋なんて恋じゃない。

 

 

雛くるむ古新聞の昭和かな

 

平成の世になってからもう随分と経つ。昭和の新聞にくるまれた雛はすっかり「古雛」なのであろう。

ところで掲句、雛を飾ろうとして包んであった古新聞が昭和のものと気づいたのだろうか。それとも雛納めのために古新聞に包んでいるところなのだろうか。

 

 

梅の香のわつと山門ぬけて来し

窓ごしの月光に手をかざしてゐ

はくれんの咲き初め夕べ長きこと

水鳥のからくりのごと泳ぎ出す

冬の雨ふいに激しくなることも

踊り子の越えし隧道木の芽風

がたぴしと二両編成山笑ふ

古伊万里のかけら打ち寄せ春浅し

ダリア咲く獄舎の庭や風渉る

 

 

神の峰霧生れてまた霧生れて

 

跋文によれば句集の題名にもなった掲句は結婚式を挙げられた上高地で詠まれたものとか。

上高地から望む穂高岳はまさしく神の峰である。その峰に霧が次々と生れては立ち昇って行く様子はまるで、二人の前途に幸多かれと山の神々が祝福しているかのようである。

 

 

以上、第零句集「神の峰」を読ませていただきました。

“考古学者イコールお堅い”という私の勝手な思い込みとは裏腹に、句柄は甘美で柔らかく、季題を優しく捉えて詠まれており、読み終えて今こころよい余韻にひたっております。

(磯田和子 記)

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.7」矢沢六平『天高し』~黙しざらざら~

「夏潮 第零句集シリーズ 第2巻 Vol.7」矢沢六平『天高し』~黙しざらざら~

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 「夏潮第零句集シリーズ」の第2巻第7号は、矢沢六平さんの『天高し』。

 矢沢六平さんは昭和三十七年東京都新宿区生まれ。慶応義塾志木高校在学中に本井英に出会い師事、俳句の世界に入る。その後、出版社勤務、フリーランスの編集業などさまざまな職歴を経て、ルーツである信州諏訪に移住。現地で御柱祭に参加されるなど諏訪にどっぷり浸かられている。

 元から独特の鋭い感性をお持ちだが、その土地に住む人々の暮らしを季題を通じて切取る、ただ鋭く切取るのではなく深く広く切取られる、切取るというより耕して土を掘り起こすような句を詠まれる。地に足の着いた腰の重いどっしりとした俳句をこれからも見せていただきたい。

磐よけて小道ありけり枯木立 六平

→季題は「枯木立」。「磐」である、「岩」ではない。何かの鎮守の山なのであろうか。枯木立の中に細い小道があるが、その道は磐で塞がれているのである。もちろん必要なときは人が動かせる程度の「磐」なのであろうが、「磐」をわざわざ置いた人と理由があるわけで、宗教的な何かのいわれがあるのではないかと想像させられる。神寂びた枯木立の雰囲気が伝わってくる。

 

大鎌を腰だめで振る大夏野 六平

→季題は「夏野」。ご本人のことではないかと思う。汗を掻きながら一振り一振り夏野の草を買っていく。大夏野といってもカナダの大夏野ではない。カナダの大夏野であれば鎌を振ることなどせず、力づくで機械で草を刈ってしまう。鎌を振って草を刈ることが出来る程度の日本の信州の大夏野である。日本の夏は蒸し暑い。何故この人はこんなことをしているのか?色色と連想が広がる佳句である。

 

田の神に御柱四本草紅葉 六平

→季題は「草紅葉」。里の神社に御柱の小さなもの四本が祭ってある。そこの足元は早くも草紅葉しており収穫の季節が近いことを感じさせる。神社から見晴らすことが出来るであろう信州諏訪平野の田圃の様子が目に浮ぶ。

 

 六平さんは実にさまざまなタイプの俳句を詠むことができる。収穫の秋の季節が近づいてきたのではないか。早期の第一句集の刊行を期待して止まない。

その他、印をつけた句を以下に紹介したい。

銅像に人だかりして秋高し

大焚火煙草喫ふ者腕組む者

電線の長さのままに雪落ち来

飛魚のはなはだ遠く飛ぶもあり

ちりぢりに分かれて昼寝宿の者

夜濯ぎや湯宿の裏に寮ありて

梶の葉や二行で記す願ひ事

秋桜や明日まで臨時駐車場

夕暮を案山子担ひて帰りけり

石積みの上にぽっかり刈田かな

藁塚にまだ新しき革財布

(杉原 祐之記)

矢沢六平さんにインタビューをしました。

矢沢六平さん

矢沢六平さん

Q1:100句の内、ご自分にとって渾身の一句

A:飛魚のはなはだ遠く飛ぶもあり
  渾身というより、今日現在、一番気になっている句です。

Q2:100句まとめた後、次のステージへ向けての意気込み。

A:掲句のような、一見無内容に見えて、確かに何も内容が無いのだが、
何か手触りのようなものがある句。
 もしこの句が、俳句表現の(数ある)成功例のうちの一つたりうるのだ
としたら、今後こうした句を(総てではないにしろ)多く作ってみたい気
がいたします。
 それを作るのに必要な道具が「写生」であり、使い方のコツが「客観」
なのであろう。薄々そう考えております。

Q3:100句まとめた感想を一句で。

A:裏山に緑あるとき雪あるとき飼犬つれて行くが楽しき

 

 

矢沢六平『秋高し』鑑賞 (青木百舌鳥)

矢沢六平『秋高し』鑑賞 (青木百舌鳥)

 

 物見遊山の群集を左右に割って巨大な「本宮一之御柱」が曳かれてきた。もう3年ちかく前のことだが、今も鮮明に思い出される。歓声のなかラッパが鳴り響き、木遣りが高らかに唄われると掛け声をそろえて大綱が曳かれ、ついには御柱が動く。そのメド梃子の先に山吹色の装束を纏った矢沢六平さんの姿を見つけた。さぞや荒くれた形相をされているかと思って目を凝らしたが、山吹色のおんべを振る六平さんは実に和やかな笑顔をしていた。「すごい人だ」と感じた。

 その御柱祭の折、夏潮の東京組にご自宅を宿として提供してくださり、そのお蔭で僕らは御柱祭を安心して存分に楽しむことができた。夏潮会においては諏訪支部長でもあり、作者としても会のキーパーソンの一人である。行雲流水の風情を漂わせながらも、豊かで繊細な感性と人情味を持ち合わせた、不思議な魅力のある人だ。僕はその厚情に甘えてちょいちょい諏訪に立ち寄らせていただいている。

 

 

銅像に人だかりして秋高し  六平

 

 本句集巻頭の句であり、高校生の頃の作者がこの先の俳句人生を送るきっかけとなった句だという。待ち合わせ場所になるような銅像に、待ち合わせの人々がたかっていて、自分はその人々と距離を置いて銅像を眺めている。銅像の周りには色づき始めた樹々がさやぎ、空は青く、高い。作者はそれを眺めつつ、ゆったりとした気分で待人の現れるのを待っている。

 

沓石におむすびほどの雪だるま  六平

 

 「おむすびほど」としたことで、据えられた雪だるまの小ささと同時に、雪だるまをつくる手の動きも想像されてくる。子の手がつくったものか、または大人が子に作ってみせたものかも知れない。

 

赤いべべ着ておつくべや雛祭  六平

 

 幼子の雛祭。「おつくべ」とは正座のことだが、促されて「おつくべ」をする幼子と、それを微笑ましく見守っている大人らの気配がある。六平さんの句には方言が比較的多く用いられているが、鄙の言葉を採集するということではなく、日常の言葉として用いる姿勢が保たれており、一方で読み手から見て不可解になったり、方言の乱用と映らない、いい塩梅にその言葉が供されていて楽しい。

 

祝はれてアイスクリンが好物で  六平

 

 この句も同様だが、「アイスクリン」が方言なのかは知らない。ともかく「アイスクリン」と呼んでいるお婆ちゃんということで十分だろう。米寿だとか卒寿だとかのお祝いの席を詠んだ句。お祝いに集まった家族が、お婆ちゃんの身体を気づかったりしていることまで想像される。

発せられたままの生の言葉を大事に取り扱う姿勢は、句の登場人物たちを作者本人が愛していることに起因しているのだろうと思う。

 

猫の仔を鷲摑みしてよこしけり  六平

 

 そうこう会話した後、子猫をもらうことになった。数匹の子猫の中の、気に入ったその一匹を指さしたのかもしれない。「持ってきな。ほら」と鷲摑みにして子猫をよこされた。飼主と作者の、子猫に対する心のあり様のコントラストがよく見える句である。とはいえ作者に飼主を咎める気持ちは無く、それもまた面白い。

 

もう一人二人居るらし夜釣りびと  六平

 

 夏の夜、涼みがてらということで夜釣りに出向いた。水辺は予想以上に暗く、足元も覚束なかったが、人の姿が見え、その人の隣に竿を延べた。涼しいのは涼しいがちっとも釣れないねと隣の様子をうかがうと、やはり釣れていない。しばらくすると物音がした。釣れたのかなと隣を見るとそんな様子も無い。その向こうにも人がいたらしく、何やら気配がする。

 

漬茄子の潰されながら切られけり  六平

 

 「そうそう、そうだよね」と言いたくなる句。よく汁を含んだ漬茄子の艶、切られるときのじゅっという音、茄子の肉の断面などが思い浮かび、すぐさま飯を炊いて漬茄子で食べたくなる。私のような中年男にはたまらない風情で、「漬茄子」が直に感じられる。

 

藁塚にまだ新しき革財布  六平

 

 この句も質感のある句。嘱目だろう。作者には手触りのある句も多く、それを大切にしていることがうかがえる。

 

雨合羽脱いで涼しき大庇  六平

 

 蒸し暑さから開放された心地よさが、大庇の広がりとともに伝わってくる。雨に洗われた青葉の色も感じられるようで、爽快さがよく表現されている。

 

暑気中り奥の座敷の暗がりに  六平

 

 仲間の一人が、どうも具合が悪いと涼しい奥の座敷に横たわった。大したことないと言うので離れたが、ふり返ると座敷は暗がりとなっていて中の様子は見えない。その暗がりの中の人の身を案ずる心境がよく伝わってくる句。

 

なつかしき祖母の小言や柿熟るる  六平

 

 今はもういない祖母が元気であった頃からある柿の木を眺めているのだろう。枝に残されて垂れるままになっている熟柿を仰ぎながらの感慨。作者が幼少期にはその木に登ったりもしただろうと想像されてくる。

 

行秋や逢へばいささか老けてをり  六平

見送るや秋日の当たる肩背中  六平

 

 久しぶりに会った友人は、記憶にある顔よりいささか老けて見えた。自分自身も友人の目には老いて映っているのだろうか。話してみれば昔のままの友人である。そう感じながらお互いの人生の時間を大事にし、楽しもうとする姿勢が「行秋や」の感慨によく表れている。

 「見送るや」の句では、友人との楽しい時間が過ぎ、その友人を見送る作者の情が下五の「肩背中」の措辞からひしひしと感じられる。

 

 全編を通して作者・六平さんの人情味がよく伝わってきて、しみじみと良い句集だと感じた。読んでいると六平さんと会って話しているかのような感じさえある。

 第一句集の上梓を楽しみにしております。

矢沢六平 『秋高し』 鑑賞 _(永田泰三)

 矢沢六平 『秋高し』 鑑賞 

  私は、ことあるごとに英先生から、「もっと言葉をせめなさい」とお叱りを受ける。写生句とはただ単に、見たままを言葉にするわけではない。じっと見て、じっくりとせめた言葉で一句に仕上げるのである。六平さんの「秋高し」に納められているそれぞれの句は、英先生の教えに忠実につくられたお手本のような句だと思った。
  そして、決して情に流されていないそれぞれの句から、人にそして自然に対する六平さんのやさしさがにじみ出ているのは不思議である。

  
  石蕗の花皆この家で生まれけり
  季題は、石蕗で冬。肉厚の葉っぱに黄色の花をつける。虚子の句に「静かなる月日の庭や石蕗の花」があるが、古い日本家屋の庭には、よく植えられてをり、その家の歴史を感じる花である。
  この句は、そのような石蕗を見ていると、この家で生まれたひとりひとりのことが思い出され、ああ皆この家でうまれたんだなあとしみじみと感動を覚えた。石蕗は、ノスタルジックな気分へと誘ってくれる。

  入り交じり鴨鳰あまた湯宿裏
鴨も鳰もいずれも冬の季題。大柄な鴨の中に小柄な鳰が混じっている。湯宿の客が餌でもまくのだろう。安全な場所で安心しきった水鳥たちの様子はなんとも可愛らしい。

  出すものを見にくる猫と年用意
  季題は、年用意で冬。新年を迎えるための様々な用意である。猫は好奇心旺盛である。何かしていると近寄ってくる。そして、小さな箱や袋に無理矢理入り込んだりする。年用意の邪魔ばかりするのであるが、そんな猫と年を迎える準備をしている。

  大鎌を腰だめで振る大夏野
  飼料作りであろうか、大鎌を力一杯降っている。大夏野だから、ちんまり小さな鎌かってもらちがあかない。大胆に大鎌でずんずん降り進むのである。大自然の中の人間の営みに感動を覚えた。

  宿浴衣着てそれぞれに家族なる
  季題は、浴衣で夏。大きな旅館やホテルでは、大食堂に集まって食事をとる。それぞれ家族ごとにテーブルについて、隣のテーブルと会話するなどということはまずないが、みんなお揃いの宿浴衣をきている。そんな風景を冷静に考えれば滑稽でしかたがない。

長き夜のダンス教室窓の中
  季題は、夜長で秋。以前シャルウィダンスという映画があったが、駅近くのビルの窓にダンス教室とかかれている。作者は、秋の夜長にこうこうと電気をもらす教室を外から見ている。残念ながら、ダンスそのものをしている姿は見えない。下五の「窓の中」が見えない窓の中を想像させる。

秋の夜を祭で喧嘩せし人と
祭は、本気である。本気だから喧嘩にもなる。でも祭の席のことは気にしない。でも本気だから実は祭の後も本当のところは気にしているのである。そんな喧嘩相手と秋の夜を過ごすことになってしまった。さてどうしよう。

野菊まで小舟曳き上げられてある
  季題は野菊で秋。名前の通り野原に咲く菊である。川辺に咲いている野菊のところまで、小舟が曳きあげられて「ある」のだ。何気ない景色が的確な言葉で描写された潔い句である。

石蕗の花皆この家で生まれけり
リハビリの人水鳥を見て来しと
入り交じり鴨鳰あまた湯宿裏
出すものを見にくる猫と年用意
大釜を腰だめ振る大夏野
漬なすの潰されながら切られけり
宿浴衣着てそれぞれに家族なる
硝子戸のガラスに屋号心太
長き夜のダンス教室窓の中
秋の夜を祭で喧嘩せし人と
石積みの上にぽっかり刈田かな
野菊まで小舟曳き上げられてある

(永田泰三 記)