花鳥諷詠心得帖43 三、表現のいろいろ-18- 「前書・詞書一」

『五百句』から『六百五十句』に至る虚子生前刊行の四句集に特徴的に現れるものに、「詞書」がある。

それは全ての句に施された「成立年月日」(「年」だけの場合もある)、および句によっては、その出句された句会やその参加者名等である。一方、それとは別に一句の前に「前書」といったものの施されている句もある。以下『五百句』中の「前書」を紹介しながら考えてみよう。

        愚庵十二勝の内、清風関
叩けども叩けども水鶏許されず 虚子 (明治二九年)

「愚庵十二勝」は京都清水に住んだ天田愚庵の庵内に設けられた名勝。「梅花谿」・「紅杏林」・「嘯月壇」などなど尤もらしい名をつけながら、その実は九十五坪ほどの土地に四畳半と二畳の庵。そこに大げさな名を被せて戯れる歌僧とともに虚子も遊んでいるのだ。「関」であって初めて納得のいく一句の内容であってみれば、この「前書」は無くてはならない。さらには「前書」を施してまでこの句を『五百句』に入れる、虚子の思いと入集基準に興味が湧く。

なお「愚庵十二勝」については近時刊行された西村和子氏『虚子の京都』に詳しい。

         嘲吏青嵐
人間吏となるも風流胡瓜の曲るも亦 虚子(大正六年)

「詞書」には「大正六年五月十二日 虚吼、吏青嵐、煙村、楚人冠等と小集。鶴見花月園みどり。」とある。一句の主人公、永田青嵐は明治九年生まれの内務官僚。関東大震災の折りの東京市長としても有名。大正六年の小集もおそらく青嵐の任官にまつわるものと思われるが未詳。古い仲間ばかりの気安さから「吏青嵐」を「嘲」ると戯れかかったのであろう。なにも官僚になって「曲がった胡瓜」のように無理して頑張ることもなかろうに、といった意味合いであろうか。ナンバースクールのエリートコースから外れてしまった虚子ならではの諧謔であろう。これも「前書」無しでは本意が伝わらない。

      酒井野梅其児の手にかかりて横死するを悼む
弥陀の手に親子諸共帰り花 虚子(大正一三年)

洵に深刻な事件に関わる贈答句。「帰り花」はその事件の起こった季節のものには違いないが、如何にも淋しい咲きざまを思い浮かべさせる。勿論「前書」が無ければ全く一句不分明ではあるが、これまた長々と「前書」を付けてまで この句を『五百句』に入れようとした虚子の意図、『五百句』入集の基準を考える上で大事な一句であろう。