「除夜の鐘」 石本美穂 選 考の年齢越えて他郷の除夜の鐘 吉田朝江 夜気凛と城下町なる除夜の鐘 一打目の響きことさら除夜の鐘 木下典子 除夜の鐘入江の町に寺二つ 田中 香 除夜の鐘百八打目の海に消ゆ 梅岡礼子 まがふなく増上寺なる除夜の鐘 本井 英
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ふと夫のゐる気配あり初鏡 根岸美紀子
季題は「初鏡」、元旦に見る鏡である。「夫のゐる気配」というのであるから、夫は本来は「いない」存在ということであろう。元旦になって「初鏡」に向かう作者。どこか近くに、いるはずのない「夫」の気配を感じたというのである。「初鏡」と女性心理がしっかり詠まれている。
句評というものは、作者の実生活に立ち入ってはいけないのが原則であるが、この句の場合、筆者には、その「夫」の風貌まで目に見えてきてしまって、言葉に詰まってしまう。たとえば筆者のように大きな声を出して、家中をどしどし歩いているような「がさつな男」の場合は、「気配」などという微妙なものはなく、細君からすれば、やや鬱陶しい位であるが、一方、作者の「ご夫君」は確かに、いつの間にか、ふっと近くに佇んでいるような、静かな人物であった。あらためてご冥福を祈る次第である。作者の亡き夫君への「愛」がしみじみと伝わってくる。 (本井 英)
雑詠(2017年5月)
ふと夫のゐる気配あり初鏡 根岸美紀子 迎春とある本殿を遠拝み 寒晴や機影は銀に光りつつ 翡翠に出会ひしことも女正月 目白どち仲間増やして戻り来し 永田泰三 餅花に残れる指の形かな 原 昇平 寒雀咥へし猫の横切れる 坂 廣子 川に沿ひ線路に沿ひて福詣 近藤作子
小父さんが去り山雀もゐなくなり 児玉和子
季題は「山雀」。小禽類の例に漏れず秋の季題ということになっている。漂鳥の多くが夏の間山奥深く棲み、秋になると人里近く現れて、人目につきやすくなることから「小鳥来る」の季題が成立、それに伴って個別の「小鳥の名前」のほとんども秋の季題となったものであろう。そして春には「囀」という求愛行動が人々の興味を引き、個別の「鳥の名」は「百千鳥」という不思議な括られ方をする。
さて「山雀」は人に懐くことでも小禽類中、特異な鳥かもしれない。明治神宮の内苑あたりでも、ポケットから向日葵の種だのピーナッツだのを小出しにして「山雀」の歓心を買っている「小父さん」をよく見かける。山雀たちは、小父さんが掌に置いたピーナッツを咥えては飛び去り、何処かに隠しては、また飛来して「おねだり」する。世間であまり慕われることのなくなった「小父さん」たちにとっては、自分を疑うことなく掌に止まる「山雀」は可愛くて仕方がない。さてしばらく「餌のある限り」は睦み合っていた「山雀」と「小父さん」。餌が無くなって、「小父さん」が立ち去ると、極々自然に「山雀」もあたりから見えなくなったというのである。微笑ましいような、ちょっと悲しいような、不思議な味わいのある一句である。
虚子に〈山雀のをぢさんが読む古雑誌〉という昭和二十五年の句があるが、こちらは「山雀」がお御籤を引いてくる芸。鎌倉の八幡様の境内に毎日出ていたのを筆者も憶えている。たしかに何時も暇そうにして「古雑誌」など読んでいた。掲出句とはまるで違う世界の句ではあるが「山雀」と「小父さん」という言葉は共通していて、どこか「淋しい」感じも通じている。 (本井 英)
雑詠(2017年4月号)
小父さんが去り山雀もゐなくなり 児玉和子 枯芝を見渡す石の露台かな 綿虫や石の露台に石の椅子 綿虫の細かに震へながら飛ぶ 楮蒸す足助の空に湯気の立ち 大山みち子 一時間半も歩いて狩の宿 小沢藪柑子 エンディングノートなど書き日短か 井上 基 父母と錦市場(ニシキ)の話酢茎食ぶ 冨田いづみ