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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第88回 (平成18年6月9日 席題 蝙蝠・籐椅子)

籐椅子を出して隅々拭きにけり
その通りであります。この句のいいのは、その通りであって、感想が入っていないですね。事実だけをぽーんと言っているのが、ある骨法を得たと思うんですね。それが、拭いて疲れたとか、懐かしかったとか、拭いて母を思い出したとか言うと、ちょっと味が濃くなってしまう。事実だけを提出して、句の背景は読者に思わせるという点では、俳句の骨法を心得た句だと思います。
蝙蝠の目に宿りたる強き意志
これ、面白いですね。なかなか蝙蝠の目って、見るチャンスはありませんけれど、ただ白目がないですね。当たり前だけど。白目がないということは、人間や他の動物の目は白目の部分が、迷いとか、動きが出たり、ためらいとかが、白目と黒目のバランスで出るんですね。蝙蝠の目を見ると、黒目ばかりで、そこにためらいも何もない。強い意志を感じたというので、蝙蝠のことをよくご存知の方だなと思いました。「強き意志」がいいと思いましたね。
垣根より南天の花はみ出しぬ
こういう句が出来る。句歴何十年の方が、こういう抑制の効いた句がお出来になるというのは素晴らしいですね。それでいて南天の花の感じ、そして実になったら、どうするんだろうということが見えてくる。
新しき一歩踏み出し立葵
たしかに立葵は、子供が並んで立っているような感じがしますね。「新しき一歩踏み出し」、立葵が一歩踏み出したようにも感じたでもいいし、自分がそこに一歩踏み出した。もっと寓意的に自分のある何かが一歩踏み出したでもいいでしょう。どのみち、立葵というものの姿からは、一歩踏み出すということばは、まことに素直に出てきて、感じが運べていると思いました。
やませ吹く田植の丸き背をなでて
これ、面白いですね。この句の背景には、冷害が見えてますね。これは冷害になるなという、岩手県から宮城県あたりの稲作の、そして若い労働者がいなくなって年をとった人たちだけで何とかやっているんだけれど、今年はやませがずいぶん強いよ。と言いながら、丸くなった背を時々伸ばし、腰を叩きながら、田植をしている。でも、おそらく今年はそれほどの作柄にはならないだろうといったようなことを、どこかに感じさせるいい句だなと思いました。(質問に対して)「季題は田植です。やませは虚子歳時記では、季題になっていないでしょう。」


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第87回 (平成18年6月9日 席題 蝙蝠・籐椅子)

籐椅子にしばし海見て蘆花旧居
蘆花旧居というと、世田谷の蘆花公園にも蘆花の住んだ家がありますね。逗子にも蘆花旧居がありますが、「しばし海見て」というから、逗子の蘆花旧居の籐椅子があったんでしょう。そんな蘆花の気持ちになってみたということです。
青田風家並抜けたる一行に
これもいいですね。どんな一行かわかりません。歩け歩けクラブかもしれないし、何かの調査の為の団体かもしれません。少なくとも十人くらいの人が一列になって歩いていたんでしょう。両方に家並がある街道をずーっと歩いていくうちは、「暑いねー。でも、風流でいいじゃない。」家並が途切れたところまで行くと、アスファルトの道の周りは、田んぼしかない。そうすると、さーっと風が吹いてきた。皆、時を同じくして、「あー、風だ。気持ちいいね。」と思った。或は口に出した。それは「青田風」。「一行に」がうまいですね。
籐椅子や午後はなんにもない予定
幸せなことであります。午前中、洗い物をしたり、お昼を食べてしまって、さあ、午後どうしよう。籐椅子でのんびりしてもいいし、買い物に出掛けてもいいし、そういう主婦の方のいい時間帯を想像できました。
花菖蒲まこと日本の古代色
なるほど。実は僕も一昨日、同じような句を作ったんです。「どの花も日本の色菖蒲園」。ああ、同じようなことを考えた。嬉しいなと共鳴しました。薔薇はいろんな色をどんどん開発しますが、花菖蒲は開発してもある色の枠組から出ない。それが日本らしいということだと思います。
しつらひは水を流して夏料理
これもいいですね。演出として、水が流れている。音もする。主人の心の配り方がよくわかった。夏料理も自ずからそういう夏料理だ。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第86回 (平成18年6月9日 席題 蝙蝠・籐椅子)

籐椅子の身体にそひてたはみけり
これは素直な句ですね。席題でこうやって素直に作ることが大切です。席題に想を巡らすことが、上達法の大事な一つなんですね。その時に、なかなか想が巡らなかったら、今度は実物をよく見るという癖がつく。嘱目と兼題とが、両輪のようにうまくなることなんです。兼題が出た時に、一生懸命考えて、その世界に自分を置く。これなどは、成功している例だと思いますよ。
蝙蝠や打ち捨てられし野の祠
これもいいですね。どこかでご覧になった景色なんでしょう。祠もずいぶん雨傷みして、観音開きの扉もはずれてしまって、信仰する人もいない。そこに今は蝙蝠が飛ぶばかりである。ある感じがありますね。
蝙蝠の飛びて灯台灯り初む
これは時間を言っていますね。灯台が灯り始めたような時間帯、ちょうどトワイライトタイムに、蝙蝠が動き始める。初めて見た人は、蝙蝠だとわからなくて、燕かと思うんだけれど、曲がり方が違います。燕の三倍から五倍、細かく曲がります。いかにも飛び方が違う。ともかく、そういう時間にと言うのが、この句のポイント。
遠のけば水鶏の叩き又はじむ
まあ水鶏がいたんですか? 実際に最近水鶏の音を聞くチャンスは少ないですが、この句の場合、「遠のけば」、つまり水鶏が鳴いているのに近づいたら、ほっと止まってしまった。ぽんぽんというのが止まった。また戻ったら、ぽんぽんと鳴いた。人の行動のプロセスが見えてきますね。
くちなしの花や少しも傷のなき
これはいかにも山梔子らしい。「今朝咲きしくちなしのまた白きこと」。立子の句があります。山梔子の特徴です。翌日は傷もつく。黄ばみもする。咲いたばかりの山梔子のこと、傷もない。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第85回 (平成18年6月9日 席題 蝙蝠・籐椅子)

梅雨入りや水玉の傘新しく
初めてなんですよね(この作者の参加が)。本当に素直ですね。いかにも新しい傘を、自分でもいいし、それを持っている女の人をみて、「ああ、新しいのを持って。」最初の畳み皺しかないような、そんな傘の感じが、よく出ている。
糀町祭り囃子も雨の内
元の句、「(前略)梅雨の内」。「梅雨」と「祭り囃子」が強さが似ているので、「祭り」が季題なのか、「梅雨」が季題なのかで、鑑賞をする時に迷ってしまいますね。ですから、いっそのこと「祭り囃子」で、夏の季題ですから、掲句のようになさった方が、ある麹町の感じがあると思いますね。しかも字遣いが、今の麹町でなくて、糀町だと、この字の持っている様子が、「雨の内」というのとぴったり合って、味わいの深い句だと思いました。
小指から夏手袋を脱ぐ女
女まで言わなくたって、夏手袋を脱ぐのは女だろうと思っていたんですが、この句をみたら、「小指から夏手袋を脱ぎにけり」では手品でもやっているのかなということになってしまう。そうなると「女」まで言った方が、狙っているある女の人の感じが出るんでしょうね。小指から脱ぐ仕草に、コケットリーを感じますね。うまいと思いました。
シャンパンの泡の向うに青葡萄
作者名を聞くと、いかにもむべなるかなという感じがいたします。シャンパンを外で飲んでいたんでしょう。シャンパンは季題にありませんが、シャンパンを季題で分けると、僕は「夏」という感じがするんですね。この句、その葡萄もいづれ育つとシャンパンになるかもしれない。そんなひじょうに明るい、戸外の光と、その光を弾くシャンパンの泡が細かく立った感じがよく出ていて、明るいいい句ですね。「泡の向ふに」というところが、いやみがないですね。
病葉や仏足石の親指に
これ、面白い句ですね。昔はただ仏足石と思ってたんだけれど、最近足の裏健康法がはやると、足の裏の図が出ていると、ツボはどこだと思ってしまうんだけれど、そんな気持ちで仏足石を見ると、親指の辺りにある病葉を見ると、これはどうも神経痛によくないななど、そんな錯覚を覚える昨今であります。きれいに磨かれた仏足石の足形の上に、病葉があったというところに、ある感じがあるなと思いました。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第84回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

一村の跡や芽立ちの葦の原
さあ、これ、むずかしいです。旧谷中村といったって、どこだかわかりません。 僕のこの句からの連想では、ダムになってしまった村を感じますね。つまりダムが埋め立てられて、水底に村が沈んでしまって、ダムの水際のところはちょうど葦が生えてをって、ああ、ここは昔、谷中村といった一角なんだよ。というと、作者名を見ると、久々に社会派が出たという感じがしますね。ダムに沈んだ村でないと、葦の原が活きてこないように思えますね。
母の日を祝はるゝことふと寂し
これはあるんでしょうね。これはさっきの別の作者の句と似たようなことかもしれません。祝うことの充実感と祝われることのある年齢に達した加齢の寂しさみたいなものが詠まれているのかもしれません。どちらも同じような世界でありながら、それぞれの個性の違いの詠み方になって、面白いと思いますね。
一抱え程の朽ち木を藤の花
「朽ち木」なんていうと、社会派なんて言われてしまうけれど、実際には藤は林業やっている人から見ると、たいへんな敵で、山仕事をやっている人は、必ず山刀を持っていって、蔓の類いがあれば切って通る。それで森を守るんですね。藤に抱きしめられると、気持ちよさそうだけれど、実は木は死んでしまう。昔からそういうのがありますね。男が松で、女が藤で、抱きしめられてという歌謡がたくさんあります。最後には松なる男が枯死するところは、なかなか深いなあと。
草中にのの字の見えて夏蕨
これは夏蕨の感じがありますね。春の蕨だと、萌え出て、周りに何もないところに立っていますけれど、夏の蕨は草の中に隠れてる。逆に丈高い割に柔らかいんですよ。その辺りの事情がよくわかる。ただ、「のの字の見えて」のところが弱い。草中に夏蕨が見えた。あるいは草中の夏蕨を摘んだというようにした方がいい。「のの字が見えた」というところが損をしましたね。
支柱より細々とありトマト苗
これも先程説明したのと同じです。元の句、「トマト苗支柱より細し風揺らす」。 風のところが余計。支柱が割合に太いんだけれど、まだトマト苗は細々として、頼りないということでいい。頼りないということも言う必要はない。俳句の場合は。支えの棒よりもトマトの茎の方が細いというだけでいい。それ以上言うと、言い過ぎるという世界になってしまう。風なんか吹かさないでいいです。