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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第17回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

椿餅薄紅色に虚子忌かな
虚子の戒名が「虚子庵高吟椿寿居士」、お年をとって、椿が好きだったということです。そこで椿餅と言われると、なるほど虚子忌にふさわしいなという感じがしなくもありません。ちなみに私が使った「惜春忌」というのは、ほとんどの人が知りませんが、虚子の別号で「惜春居」という名前があります。意外と早くから使っていたということが、最近わかったんですが、「惜春居」という落款もあるんですね。「虚子忌」を「惜春忌」ということも許されると私は信じております。
花人の登城のごとく田安門
これは人気ありましたですね。今日はもう引っかかってしまって、登城できないですけれど、朝桜の頃で、ちょうど登城の時刻があります。えらいお侍だと、裃を着けてそのまま上がっていけばいい。中級以下のお侍だと腰に弁当をぶら下げて、これを腰弁という。腰弁組というのは、下級の旗本みたいなのが、城内でお弁当が出ない。この場合は登城のごとくというのだから、郎党を連れて、家来を連れて、裃を着けたちょっと偉そうな旗本のような感じがいたします。もっと偉いと、駕篭に乗って行ってしまうから見えないですから、微妙な階級ですね。本当にあったかどうか知りませんが…。ちょっと外股に、ゆっくり肩を揺すぶっていく、そんな益荒男ぶりの歩き方が描かれて、面白いと思いました。
常州の三代の碑の虚子忌なり
常州は常陸の国。常州三代は、僕はよく知りません。まあ、常州を治めた殿様が三代いたとかいうことだと思います。それも治世がよかったんでしょうね。その碑の前に立って、「あー、そういうこともあるんだ。偉い人っていたもんだな。」と思ったら、「今日は四月の八日で、虚子忌でもあったのだわい。」そういう句だと思います。いかにも春闌、さすがに常陸の国も、暖かくなっているという余韻がこの句にはあろうかと思います。
桃の門手押車の出で来たる
手押車が猫車のような、一輪車のようなことだと思うんですが、桃がたっぷり咲いた大きな百姓家の門があって、その門から突然手押車がぱんと出てきた。いかにも大きなお百姓だけれども、細かい日々の農作業もしてをるのだという感じで、健全な田舎の大百姓の姿が見えてくると思います。
すき込まれ首もたげたる花菜かな
元の句、「菜種かな」。稔って、油を絞るばかりなのが「菜種」。その時にすき込むのは何だろうということになってしまいます。すき込むと油が取れなくなってしまいますから。そうなると、花菜。これは土質改良の為にそういうのを播くことがあります。向日葵だけ播いておいて、それをすき込んで、次に何か入れるとか、よくあります。この場合には、花菜を植えておいて、それをすき込んで、栄養にしようということです。菜種ではなくて、花菜。ざくざくざくとやったら、首をもたげている菜の花があったということですね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第15回 (平成17年4月8日 席題 花一切・虚子忌)

伸びをしてもう一仕事暮遅し
季題は「暮遅し」。「遅日」とも言うし、「日永」とも言いますが。根を詰めて仕事をしていた。「ああー。」と背伸びをして、「今日はこれで止めておこうかな。」と思ったけれど、まだまだ明るいので、もうちょっとやってみましょう。この解釈、あまりやると、屋外の仕事かということになるけれど、デスクワークでもよろしかろうと思います。ただ、この仕事ぶりが、管理されていないところが、面白いですね。悠々自適の人が、たとえば自叙伝かなにか書いていて、もうちょっとやろうかなどと、悠揚迫らざる暮らしぶりも見えてきて、楽しいと思います。
花の中に埋もれイギリス大使館
見たままを見たままで詠めるということは、尊いことだと思いますね。これで結構です。イギリス大使館は古くからあるし、囲いも大きいし、自ずから景が広がってくると思います。
家墓は菜の花畑の真中に
お寺さんの檀家で、お寺に墓地がある場合もあるけれど、田舎に行くと、屋敷墓と言いますかね。一角、畑と畑の間にお墓があることがあります。たしか韓国辺りの景色にこういうのが多いですね。菜の花の咲いている中に家墓があった。よく桜の下には、死体が埋まっていて、桜の花が異様にきれいになるという話があるんだけれども、菜の花の下にという話は聞いたことはない。けれども、埋葬した土から生えてきた花の妙な美しさというものを、この句の場合、ちらと感じましたね。
甘茶寺詣でやさしき人となる
「甘茶寺」で季題にするんでしょうね。「甘茶」が季題になります。つまり、「仏生会」、「花御堂」を設えて、そこにお釈迦様の像を置きます。つまり天上天下唯我独尊という形をとっておりますが、そこへ甘茶をかける。それが甘茶仏であります。四月の八日。ちょうど花祭りということになりますが、そうやって詣でた時に、なにか仏心というようなものが芽生えて、「今日は私がやさしいような気がする。」「今日ばかりは仏心があるぞ。」というユーモアが面白いと思いますね。
桜より高く靖国大鳥居
なるほど、言われてみれば、靖国神社の鳥居は、高いですね。他の神社に比べると。特に九段下から仰ぎながら上ってくるというと、一層鳥居の高さが際立たしいです。これが、たとえば明治神宮の鳥居だって、決して低くないんだけれども、同じ高さから見通しますから、それほど高く感じないけれど、靖国の鳥居ばかりは、下から坂を上る分だけ、高さが一層強調されますね。そして下から見る桜が満開であるということで、ある感じが出ていると思います。叙景だけでいくところがいいですね。ここに若干でも思想的なものが加わると、とんでもないことになってしまいそうで恐いんですが、全くそういうものを感じさせない没思想なところが、救っているかもしれませんね。