花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第38回 (平成17年9月9日 席題 狗尾草・夕月夜)

狗尾草撫でて吾が家の恋しくなる

字余りを自在にお使いになるところはお上手になられたなと。「狗尾草撫でて吾が家の恋しさよ」でも、一句になりますね。その方が字余りにはならない。「(前略)恋しくなる」というと、若干プロセスが出てくる。撫でているうちに、だんだん、だんだん、自分の家が恋しく思われてきて、帰らなんいざという気持ちがしてきた。「恋しさよ」というと、ちょっと薄っぺらい感じがしますが、「恋しくなる」と字余りにしたことで、じわじわと里心がついた気分がよく出ているなと思って、そういうふうに字余りを確信犯的にお使いになるところは、大したものだと思いました。

台風の前の静けさ庭を掃く

真面目な主婦ですね。台風が来るのはわかっているんだけれども、ともかく今日は今日で、庭を掃いておきましょう。さてさて今度の台風で、この子達と言いたくなるような、庭の花や木がどれほど痛めつけられるか。可哀想なことだ。でも、大きな自然の前では仕方のないことだよと思って、花や木をなだめるように、朝の一時、庭を掃いてをった。ということで、いかにもやさしい主人公の面影が目に浮かぶようであります。

スニーカー露けき朝を迎へけり

ちょっと特殊な都会の句ですね。つまり真夏の朝は、むあーとしておよそ露けしという気分のしない都会の朝。朝、ウォーキングかなにかで、外へ出るんだけれども、スニーカーを履いても、何かもあっとした、夜のほてりがまだ残っているような、そんな朝が続いてをった。ある日、スニーカーを履いて外へ出たら、今までとはまったく違う朝で、あ、これを露けさと言うんだ。という朝であったということです。これは田舎にいると、わりと早く、八月のうちからするんですが、都会にいるとそういうことはなさそうで、ある日、がらっと秋になる。ある日、がらっと秋になった朝、ウォーキングに出ようとする主人公。と思うと、現代的なある場面を切り取って、なかなかにくいなと思います。

今しばしそぞろ歩きを夕月夜

ちょっと、「そぞろ歩きを」というところが、ことばがもう少し実のある言い回しがあってもいいかなという気がしたんですが…。もうちょっと歩いてみたいな。忙しい身をかこっているんだけれども、もうちょっと歩いてみたい。「そぞろ歩き」という言い方が少し形になってきているから、そこがむずかしいですね。採らない句の批評ってしないんだけれど、ちなみにふっと思い出したんで、「ゆきずりの子の」というのがありましたね。「ゆきずり」というのが、かえってニュアンスが出過ぎてしまう。「ゆきずり」は、もちろん辞書的にはすれ違うことなんだけれども、「ゆきずりの恋だよ」などというような台詞まで、つきまとってしまうから、ニュアンスが出過ぎてしまう。子どもでしょ。田舎の小学生がかならず教えられた通り言う「こんにちは」ですよね。「すれ違う」ですよね。「すれ違う子の挨拶やねこじゃらし」の方がすっきりする。元の句の「ゆきずりの子の挨拶や」だと、そんなこと何か意味深なことがあったのかい。ということになって、「ゆきずり」ということばの持っている、嫋々たるニュアンスがかえって邪魔するんですね。この「そぞろ歩き」も、若干気分が付いてしまっている。気分がついたことばというのは、余程、ぴったりならいいけれど、そうでないと、その気分で句が走ってしまうから、素朴な感じがしなくなってしまうんです。むずかしいところです。それが一種の軽みでもあります。素朴なことばを連ねることで、ある軽みが出るわけで、ことばの持っているべたついた感じがあるから、気をつけて使わないといけないんですね。

蜉蝣の影のごとくに番かな

うまいですね。ほやほやほやと飛んでいる感じで、よく見たら、二匹だった。最初は一匹だと思ったが、影のように寄り添ってをった。いかにも寂しい感じがして、蜉蝣の番というものを、またそこから人生を思いついてしまうような句ですね。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第37回 (平成17年9月9日 席題 狗尾草・夕月夜)

石積みし舟曵く船や夕月夜 

「夕月夜」という題を出してみて、みなさんがあまり夕月夜というのを、気になさらずに暮らしていられるんで、むずかしい題でしたね。今日は葉月五日で、五日月がかかっているんですね。これが十五日になると,今月の陽暦でいうと、九月十八日ですが、十八日、日曜日が中秋の名月ということになります。俳人というのは、不思議なもので、この中秋の名月を、特別に愛づるんですね。前の晩が小望月、その日が名月、翌日が十六夜月、ぐずぐずして出てくるから。それから立って待っているうちに出てくるから、立待月。立って待っていられないから、居待月。横になって待っているから、臥待月。それから最後に宵闇という、毎日毎日月を愛づるという、俳人の一種の風狂ですね。その伝でいくと、ちょうど今日あたりが、夕月。夕方に月が西の空にかかっている間。三日月より太くって、まあ上弦の月ぐらいまでの感じ。ちょうど、この二、三日が 夕月。夕月夜。あるいは宵月ですね。むずかしい季題ですが、やはり秋風が立って、この月が丸くなったら、中秋の名月なんだよという、一抹の寂しさ。もう夏のかけらがほとんど消えかけた、その気分が夕月夜なんでしょうね。 「舟曵く船」で、舟というふねと、船というふねと書き入れて下さって、なかなか苦労がある。石を積んだ舟は、いわゆるダルマ舟というんでしょうね。ものを載せるだけで、自分は動かない。それが舟で、それを汽船がワイヤーロープかなにかで、引っ張っている。まあ、舟と船と書き分けなくても、両方「船」でいいと思いますね。つまり石を積んだという、あまり高くない、台船というんでしょうかね。低い船に低く石が積んである。高く積んだら、沈んでしまいますからね。そこの低いシルエットと夕月の細々とした感じがいかにも匂いあっていて、涼しい夕方の風が感じられましたですね。

声だけの応へおくらの花の中

おくらの花というのは、紅蜀葵とか、黄蜀葵の類いで、つまり派手な葵科の花が咲くんですね。あんな美味しいものになるとは思えないぐらい、きれいな花なんです。その花盛りのおくら畑なんでしょう。葉もあるし、花もあるから、ちょっと人がどこにいるかわからない。「おーい。」と言うと、「ああ、いるよ。」なんて、声はするけれど、姿はまだ見えない。そんなおくらの実からは想像できない、花のあでやかさも、この句を活かしていると思いますね。

狗尾草たおやかなるを風の愛で

うまいですね。狗尾草、猫じゃらしとも言いますが、狗尾草、すなわちそのたおやかなるものを、今風が愛でてをるよ。勿論、そう言いながら、作者が愛でているわけですね。

ざくろの実朝日集めてゐたるかな

何でもないんだけれども、ざくろの実の形がちょっとごつい、その感じ。そのざくろの実が朝日を集めているということで、そう沢山なっているわけではない。いくつかの実が見えて、それが乱反射する。まん丸ではない。そこが、ざくろの実らしいと思いました。

萩の庭今日はバイエル何頁

いろんな解釈ができるんですが、萩の庭を愛づるような人ですから、大人の女の人が主人公と解釈しました。となると、バイエルを弾くはずはないんで、それはお稽古にくる子が「今日はooちゃんが来るから。バイエル何頁なんだわ。」ということで、別にさらう必要は無いんだけれども、そういうことを思いながら、お稽古の子供が来るまでのちょっとの間、洋間のガラス戸から、庭の萩の花を見ているという、落ち着いた大人の、やや老いた、ピアノの先生のように感じました。