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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第81回 (平成18年5月12日 席題 海亀・夏蕨)

雨降りの空の向うに初夏ありて
ひじょうに感覚的な句ですね。こういうの、いいと思いますね。なかなか初夏が来ない。待ち望んでいる初夏がなかなか来ない。今、雨が降っているんだけれども、その向こうにあるはずなんだ。という初夏を恋う気持ち。これはこれで面白いと思いますね。初夏と言うのは、今の五月頃になるんですかね。
山荘へ来し余録なる夏わらび
元の句「山荘へ来た余録なり」。「余録なり」と切ってしまうと、余録の方へ、興味の中心が行ってしまう。予期せぬご褒美が余録。自分は行きたくなかったんだけれど、家族が言うのでやって来た。思いもかけず、山荘の敷地の中に夏蕨が生えていて、しいて言うなら、余録というものだね。それが「山荘へ来た余録なり」だと、興味の中心が余録に行ってしまう。掲句のようにすると、「夏わらび」そのものが見えてくる。これも「余録なる」と連体形で結びつけて、一句の中心を「夏わらび」へ持っていかないと、つまらないことになってしまう。
栃の花咲きて連休始まれる
いかにも日本の栃の花の咲き様。ヨーロッパの栃だと、もう少し早く咲き出すかもしれないけれど、日本の栃だと、この頃。いかにも、連休が始まって、都会の栃の花の感じがしますね。誰も人がいなくなったという感じがするかもしれませんね。
山里の底に連々田が控へ
「レンレン」と言ってどうか、「つらつら」と言って、どうか。ただ面白いのは、山里と称していながら、実はある程度高い所に(五箇山とか、そう言う感じですが)村落があって、田んぼは大分下へ下がった所にある。山仕事と田仕事が混ざっているような山村。山里の底の方に若干の水田があって、それが控えているように見えた。というのは、面白いなと思いました。ただ、「田が控へ」だけで、季題になるかどうか。「連々植田あり」ぐらいにしておかないと,季題として「田が控へ」だけではむずかしいでしょうね。
海亀の卵を生むにもはらなる
一生懸命に卵を産んでいるというのを、冷静に「もっぱらだ」「専心」心を籠めて産んでいるという句で、これでいいと思います。ただ、元の句、「もはらなり」だと、ちょっと説明っぽくなってしまいますね。「もはらなる」にすると、もう一回叙述は海亀に戻るんですね。「卵を生むにもはらなる海亀よ」という勢いがあります。ですから、諷詠としては「もはらなる」になさった方が、余韻が出てくるやもしれません。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第26回 (平成17年6月10日 席題 苺・虎が雨)

十薬の雨を待ってる線路際
これはいろんな言い方があって、「雨を待ってる」というのは、ちょっと口語的で、「十薬の雨待ってゐる」とか、どちらもそれなりの主張があるんですが、外の言い方もあるということを、一応心得ておいた方がいいかもしれません。いかにも十薬、どくだみですが、いわゆる雑草ですが、その十薬がしばらく雨が降らないので、すっかり錆びたような色になってしまっている。もともと、紫っぽい色が多いんですが、それが乾いたような色になっている、それを線路際に見かけたという句ですね。
次々と植田に雨の走り来る
いかにも梅雨を前にした、あるいは梅雨の初めの植田の様子がよく出ていると思いますね。青田と植田の違いは、青田は青青と苗が育っていますけれども、植田は植えたばかりですから、苗がひょろっとして、ものがよく映りますですね。植田の頃の夜の田舎の景色なんか見ると、水の中に全部家の灯火なんかが浮かんでいるように見えるのは、植田が全部映し出してしまうからなんですね。植田と青田の違いをこの句はよく知っていて、ぱーっと雨の駆け抜けた感じが青田ではなくて植田なので、なるほどなと思いました。
婚礼の舟しめやかに花菖蒲
婚礼はもっと賑々しくいくもんだけど、お葬式はしめやかにやります。それをあえて婚礼が「しめやか」だというところに、潮来あたりのそういう舟に乗って、花嫁さんが静かに進んでるというようなことを言わんとしているのだと思います。一つの花菖蒲の景色として面白いと思いました。
弱りゆく子にすべもなき鴨の親
「鴨の子」と言ってもいい、「軽鳧の子」と言ってもいい。夏の季題です。それがどういう理由かわからないんだけれども、育たない鴨の子がいて、それが徐々に弱っていくのに、すべもないという句です。厳密にいうと、僕の記憶では、たとえば鴨の子が六羽くらいいると、大きいのは巣立ってしまって、一番小さい子は、皆からいじめられて、親からもいじめられてしまう。だから、「すべもなき」というのは、人間的に見た、きれいな言い方で、実際に動物の世界では一番育たない子は親にもいじめられるというのが、本当の姿かなと思います。ただ、科学のレポートではありませんから、人間の気持ちとしては、「すべもなき」という人間の親心に照らし合わせることは、文学としてはいいんだと思います。ただ、現実はもっともっと残酷なものだということを、僕は見た覚えがあります。
合羽着て梅雨ニモ負ケズ小犬行く
まあ、この句を採るか採らないかで、悩ましいところでした。もちろん「梅雨ニモ負ケズ」の「ニモ」と「ケズ」を片仮名で書いてありますから、宮沢賢治を百二十パーセント意識して、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のパロディーとして、そんな贅沢な子犬が合羽を着て、歩いている。というのを、皮肉に詠んでいるんですけれど、あんまり皮肉の要素が強くなっていってしまうと、花鳥諷詠でなくなってしまう。つまり、この句の場合、「梅雨」がどこまで生きているかというと、あやしいですね。皮肉とか、作者の主張が、こんなふうに読んでねというメッセージ性が強いと、その分だけ季題の働きがわるくなる。不思議なもんですね。季題だけ詠んでいこうとすると、季題がどんどん生きてきますが、今日、お採りしなかった句の多くは、それですね。作者がこう読んでという付帯条件というか、付帯意見を付けてしまっているんですね。読む方は、こう読めと言われると、違うふうにだって読めるじゃないかとなってしまう。どこまでも季題諷詠でいこうとすると、もっともっとメッセージ性が弱い方が、季題の風情が生きるんです。そこが花鳥諷詠の微妙なところです。この場合、片仮名で書いたところに、作者の意図が露わ過ぎて、採れない。採れないけれど、ぎりぎりかというところで、これ以上、作者の季題でない部分のメッセージが強いと、それは採れません。秋雨でもいいし、雷でもかまわない。それを言っておきたいと思います。