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花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第87回 (平成18年6月9日 席題 蝙蝠・籐椅子)

籐椅子にしばし海見て蘆花旧居
蘆花旧居というと、世田谷の蘆花公園にも蘆花の住んだ家がありますね。逗子にも蘆花旧居がありますが、「しばし海見て」というから、逗子の蘆花旧居の籐椅子があったんでしょう。そんな蘆花の気持ちになってみたということです。
青田風家並抜けたる一行に
これもいいですね。どんな一行かわかりません。歩け歩けクラブかもしれないし、何かの調査の為の団体かもしれません。少なくとも十人くらいの人が一列になって歩いていたんでしょう。両方に家並がある街道をずーっと歩いていくうちは、「暑いねー。でも、風流でいいじゃない。」家並が途切れたところまで行くと、アスファルトの道の周りは、田んぼしかない。そうすると、さーっと風が吹いてきた。皆、時を同じくして、「あー、風だ。気持ちいいね。」と思った。或は口に出した。それは「青田風」。「一行に」がうまいですね。
籐椅子や午後はなんにもない予定
幸せなことであります。午前中、洗い物をしたり、お昼を食べてしまって、さあ、午後どうしよう。籐椅子でのんびりしてもいいし、買い物に出掛けてもいいし、そういう主婦の方のいい時間帯を想像できました。
花菖蒲まこと日本の古代色
なるほど。実は僕も一昨日、同じような句を作ったんです。「どの花も日本の色菖蒲園」。ああ、同じようなことを考えた。嬉しいなと共鳴しました。薔薇はいろんな色をどんどん開発しますが、花菖蒲は開発してもある色の枠組から出ない。それが日本らしいということだと思います。
しつらひは水を流して夏料理
これもいいですね。演出として、水が流れている。音もする。主人の心の配り方がよくわかった。夏料理も自ずからそういう夏料理だ。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第35回 (平成17年7月8日 席題 川床・金魚)

切符買ひはや旅心梅雨晴間
「はや旅心梅雨晴間」というリズム感は、僕なんかが作らないリズム感ですが、晴子先生にこういうのがありましたね。不思議なリズム感。これも俳句なんでしょうね。自分が作れないリズム感だから採らないというのは、選者として、あまりに狭量で、ああ、こういう言い方もあるんだなと思っていただきました。
座して待ついざこれよりの夏料理
すごい夏料理が出てきそうですね。『美しき緑はしれる夏料理』というのが、立子先生にありますけれど、この「さあ。」ていうのがね。この句の面白いのは、卓におしぼりくらいしか出てなくて、何もないというのがわかって、「さあ、これから出てくるらしいよ。」それこそ、さきほどの沖膾とか鮎が石の上載ってるとか、そういう感じがあって、面白いなと思いましたよ。このリズム感、いいですよ。このリズム感をお持ちならね、あの蚊帳の句の破調は損。「虫一匹も許すまじ蚊帳をつる」「蚊帳つって虫一匹も許すまじ」とすると句になる。このリズム感を持っているんだから、あの句ももう少しリズム感を考えればよかったかと思います。
池深く沈みて鯉の酷暑かな
面白い句ですね。寒中は深い所にもぐります。大体三、四十センチくらいの池でも、かならずそこに一メートルくらいの溜まりを作っておくもんなんですね。鯉を大事にする人は…。底の水温が高いですから、寒中は底にぐーっと沈んで、動かなくなる。寒中の時は、皆知っているけれども、なるほど酷暑の時もそうかもしれない。水の温度がすっかり上がってしまっていた。ほんとうは寒中に沈むような深みに、鯉が沈んでいた。ちょっとした発見で、面白いですね。そして「鯉の酷暑かな」というアリタレーション(頭韻)の感じもいい感じ。日本の詩にはライム(脚韻、押韻)とかアリタレーションというのは、あまりないんだけれど、でも俳句の場合、リズム感の中に実はアリタレーション、ライムよりはアリタレーション、鯉の酷暑の「こ」の重なりに、ある軽快さがあって、いいと思いました。
梅干の一粒ずつの陽の香り
ちょっと気取った句ですけれどね。若干気取りがあるけれど、「一粒ずつの」というところに、景が目に浮かぶ要素があると思います。
もろこしの甘さ少年の日の夢よ
この字余りはいいと思いますよ。なるほど、もろこしを甘いと思って、かじった頃のさまざまの夢。今、思い返して、どうだろう。それを今、ある年齢になって、もろこしを食べながら、思い出しているということだろうと思います。