花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第91回 (平成18年6月9日 席題 蝙蝠・籐椅子)

梅雨に入る糠床に塩ふりにけり
いいですねー。梅雨に入るというある気分と、「だから」というよりも、「そうそう」と言いながら、ある時間ができて、糠床の整理をしたというところが、よく出ていると思います。
灯ともせば白あじさゐに届きけり
うまいですね。白あじさゐという言い方がね。あじさゐというと、傍題に七変化と言う傍題があります。したがってあじさゐというと、色が変わっていくものだ。あるいあじさゐ色というとはピンクとか青というふうに、固定観念で決めてしまうんですね。ところが白あじさゐと言われると、なるほどそういう段階もある。「白あじさゐ」と言い放ったところに、この作者の俳句のこつを大分覚えていらっしゃる感じがよく出ていると思いました。
紫陽花を映しつ水の流るかな
こっちの方は白あじさゐより、ちょっと劣るかもしれない。どうしてかと言うと、「映して水の流るかな」は理なんですね。影はそのままでも、影を映している水の本質そのものは流れているんだという、そう言う理屈をちょっと感じるんですね。そういう意味で、この句の瑕になっているんですね。
あじさゐの寺をよぎつて世田谷線
これ、いいですね。何寺だか知りませんが、世田谷線というのは、昔は畑の間を、ぽそぽそぽそぽそ走っていたんですよ。それがいつの間にか、どんどんどんどん家が混んできて、昔は寺と畑しかなかったような所を今は家の間ばっかりだ。ところがそんな中で、寺の近くを通って、あじさゐのほとりを通る時は、一番の安らぐ時なんだ。ということを、説明でなく言えている。説明でなく言えてる、この句の最大の手柄は「世田谷線」です。固有名詞の使い方が、この句はうまかったですね。昔はああだった。こうだったということを言わないで、「ああ、かつての世田谷。今の世田谷。」というのが、よくわかってきて、この句は固有名詞を使う、お手本みたいな句かなと思いました。


   

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