花鳥諷詠心得帖30 三、表現のいろいろ-6- 「字余り(二カ所以上の字余り)」

「字余り」の話、最後に残ったのは「二カ所以上」の「字余り」。
本来「五七五」の定型律から言えば、「字余り」は特例。
従って「上五」で「字余り」になってしまったら、他の「中七」「下五」ではきっちり定型を遵守すべきところ。
つまり「二カ所以上」の「字余り」は定型に対する態度として不見識の謗りを免れまい。
ところが虚子『五百句』にそれが十七例もある。

虚子の『五百句』が必ずしも昭和十年の段階での「ベスト五百句」というのでもないことは
虚子自身が書いていて、基準を変えれば、別の「五百句」も選び得るのだという。
と言うことは「二カ所字余り」の句なども、傷はありながら、捨てがたい何かを含んだ句と言うことであろう。

既に指摘した通り、この「二カ所字余り」は全て『五百句』中の前半二百句までのもの、
時代的には大正七年までの作品。
さらに言えばその殆どが、大正二年以降、同七年までの作品である。
これは時代的には凡そ「進むべき俳句の道」の執筆時期と重なっている。
そしてこのことは我々にある「暗示」を与える。
「進むべき俳句の道」の主張は一言で言えば「主観の涵養」。
勿論末尾に「客観写生」を忘れてはならないと釘を刺してはいるが、その客観写生も内部に鬱勃たる
「主観」が働いてこそ生き生きとしたものになる。

造化已に忙を極めたるに椄木かな  虚子
「椄木」は春の季題。春になって草は萌え、木々は芽吹き、虫は地中から這いだして、鳥は恋を囀る。
これらは勿論すべて「造化の神」の仕業。
一年中、さまざまに造化の営みはあるものの、この春先ほど目に見えて造化の働きの忙しいことは
ないだろう。
「造化已に忙を極めたるに」はそうした事情を述べたもの。そして季題の「椄木」は
春になって人間がさらに営む自然への働きかけ。
作者は眼前の「椄木」の景から「造化」の運行までを空想して、春の到来を全身で歓び迎えている。
まことに主観的な一句ではあるが、大正期の虚子はここまで言わなければ、気がすまなかったのであろう。

天の川のもとに天智天皇と虚子と 虚子
詞書に「筑前太宰府に至る。同夜都府楼址に佇む。懐古」とある。
この「懐古」は自らの生涯などという短いものでなく、日本の歴史を大きく見渡しての「懐古」であろう。
悠久の銀河のもと、大陸に近く細々と連なる列島の小国が何とか生き延びている事への感懐。
そんな主観的な想いを「天の川」に託して述べている。

「臣虚子」の句形があったり、『五百五十句』の序文で取り消したり、さまざまに話題の多い句ではあるが、
めずらしく主観へ大きく傾斜した句と言えよう。
「二カ所字余り」。
ある時期の虚子の句風を考えると少し納得の行く表現方法ではある。