花鳥諷詠心得帖29 三、表現のいろいろ-5- 字余り(下五)

さて次は「下五」が字余りになる例。

これは虚子『五百句』中、「上五」三十八例、「中七」十六例、に比べて断然少ない九例である。
時代的な偏りも特には認められない。

前回既にご紹介した
瓢箪の窓や人住まざるがごとし 虚子
の句は、所謂「渡り句」で、始めから五七五の感覚は薄い。
「窓や」の「や」の切れが強烈で、仮に「瓢箪の窓や人住まぬがごとし」と十七音節に押し込めても、
定型の持つ安定感が得られるわけでもない。

しかも「ざる」を「ぬ」としてしまうと「ざる」にあったクラシックな感じ、漢文訓読調の醸し出す時代めいた気分が
阻害されてしまう。
瓢箪の生り下がっている小窓は、あたかも隠者の住まいのような気分を運んでくれる。
例えば『奥の細道』の福井の条、「ここに等栽と云ふ古き隠士あり(中略)あやしき小家に
夕顔・糸瓜の生えかかりて」云々を思い起こす読者もあるだろうが、ともかく「ざる」の字余りの効果は
確かにあるのだ。

この漢文訓読調に通じる硬質感という点では、
夏の月皿の林檎の紅を失す 虚子
この句など「紅失す」でも「紅消ゆる」でも良さそうな気もするのだが、作者はどこまでも「硬く硬く
言いたいに違いないのだ。
詞書に「大正七年七月八日 虚子庵小集。
芥川我鬼、久米三汀等来り共に句作」とあるのを読めばその辺りの作者の「気の張り」は想像に難くない。
漱石門の若き俊秀を迎えて虚子の高揚した気分は漢文訓読調でなければ表現出来なかったのだろう。

蛇逃げて我を見し眼の草に残る 虚子
有名な句だ。
先ほどの「紅を失す」にも言えるのだが「下五」字余りの場合も「下五」の直前に軽いポーズ、
「間」があるように思われる。
この句でも、「眼の」と「残る」は主述の関係で、そこに「間」が挟まるような言葉の関係ではないのだが、
実際に声に出して朗読してみると、「我を見し眼の」で軽くポーズがあって、「どうなったの?」
「何処へいったの?」という疑問を一旦読者の脳裏に浮かび上がらせて、しかる後に「草に残る」
と結末を伝えているのだ。

このことは
秋の灯に照らし出す仏皆観世音 虚子
でも言えるのだが、この句の場合は「仏」を「ぶつ」と訓むか「ほとけ」と訓むかで分類は異なってくる。
しかしいずれの場合であっても「間」の存在することは同じで、「皆観世音」の直前には恰も堂内を
ゆっくり見回しているようなポーズが存在する。

朝寒の老を追ひぬく朝な朝な 虚子
蜥蜴以下啓蟄の虫くさぐさなり 虚子
についてもほぼ同様のことが言えそうだ。
さらにこの二句の場合は「下五」に入ってフェルマータがかかる。