花鳥諷詠心得帖17 二、ことばの約束 -9- 「仮名遣いの話(拗音や促音)」

前回の末尾に「現代仮名遣い」の「注意」を掲げたが、今回はその解説。と言っても、話は一つ。

つまり拗音や促音を表記する場合の「小文字」の件である。

現代仮名遣いでは、「きゃ」「きゅ」「きょ」「にゃ」「にゅ」「にょ」の類の「ヤ行音」は縦書きの場合右下に
「小さく」書き、「かった」「とった」といった促音を表す「タ行音」も右下に「小さく」書く。

と言うことは翻って考えれば、歴史的仮名遣いに「小文字」は登場しないと言うことだ。
「小文字」という概念がそもそも無かった。
無くても痛痒を感じなかったものを、五十数年間無理強いしたお陰で「無いと変」と思うように
慣らされてしまったようだ。

実際「夏潮」に俳句を投じて来られる誌友諸兄姉の中にも一句を「歴史的仮名遣ひ」で表記しながら、
この「小文字」ばかりは「現代仮名遣い」に倣っている方も少なくない。
そして実際は作者の意を汲んでいちいち訂正せずに印刷所にまわしている。
結局その方が「紛れ」が少ないから、敢えて承知の上で、そうした処理をしているという訳だ。

さて、「現代仮名遣い」のルールを点検しながら、「歴史的仮名遣ひ」に思いを馳せて来た訳だが
、正書法という観点からは特に「歴史的仮名遣ひ」に不都合があった訳ではないことがお判り頂けたと思う。
「心得帖11」の本欄でも触れたように、「歴史的仮名遣ひ」は江戸時代になって、
奈良時代の発音を推量してそれに合う形で構成した正書法である。

江戸時代すでに「歴史的仮名遣ひ」とは異なる発音になっていたのである。
それを敢えて千年前の発音をその基準に置いた訳だ。
つまり、その根本精神には強烈な伝統重視がある。
常に変化して止まない「言葉」という生き物を、変化した現代で捉えようとすれば、
常にルール変更を余儀なくされる。

「現代仮名遣い」が金科玉条のごとく振りかざす「現代音」などあっという間に変化してしまうものなのに、
それに気がつかない。
そして「その度に」伝統を切り捨てて行くことになる。

戦後の二大国語政策である「現代仮名遣い」と「当用漢字」の制定は、「伝統の切り捨て」という大方針に
沿ったものだ。
実はこうした機運は明治時代初期にもあった。
つまり、かながき運動然り、ローマ字運動然り。
明治時代には日本語廃止案まで飛び出した。
黒船騒動に始まった文明開化の中で慌てて没日本論、欧化論を展開したのだ。
そして今回の敗戦。

同じように一部の人は西洋を目指した。
いや「みじめな日本」を忘れようとした。
とあるフランス文学者の「第二芸術論」などは正にその極みであった。
次回からは暫く漢字のお話。