西山泊雲は昭和十九年九月十五日に六十八才で亡くなっている。つまりこの句の季題「泊雲忌」は九月十五日。「紫菀の咲けば」とも詠んでいるので、実際「泊雲忌」の季節を知らなくても困らない。その時、師虚子は小諸への疎開を果たしたばかり。虚子の「句日記」、「九月十五日」の条には「泊雲逝去の報至る」の詞書と共に「紫菀咲く浅間颪の強き日に」の句が録されている。本土決戦が囁かれる昭和十九年、ほぼ縁故の無い信州小諸に疎開した虚子が、最も信頼する愛弟子泊雲を失ったことにどれほど落胆したか想像にあまりある。終戦後、ようやく旅をすることが出来るようになった虚子が真っ先に向かったのが泊雲の墓参りであったことからも、この折の虚子の心中は察せられる。一句はそんな虚子の心中に思いを馳せての句と解すれば洵に納得のいくものである。俳句は自分自身の感懐に即して詠むのが普通であるが、この句のように自分だけでなく、他の人の気持ち(この句の場合は虚子)に心の及ぶ句の世界もあっていいのだと思う。それほどまでに「紫菀」と「泊雲の死」は深く結ばれているのである。(本井 英)
思ひ出す紫菀の咲けば泊雲忌 長浜好子
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