季題は「雲の峰」。一句の解釈上のポイントは「アフリカ行きの船」、「アフリカへ行く船」ではない。つまり「アフリカ行き」は「定期化」・「路線化」されていることを窺わせる。このことから、およその「舞台」が見えてくるのである。横浜の大桟橋や東京の日の出桟橋から「アフリカ行き」の定期便は出ていないし、出ていたこともない。戦前の郵船なら「マルセーユ行き」や「シアトル行き」があったのだが……。
では現在そんな「定期便」はどこにあるのか。ここからは想像であるが、マルセーユとかナポリとかなら、今でもありそうだ。マルセーユ発アルジェ行きとか、ナポリ発チュニス行きとか。
もう一つ問題がある。それは「アフリカ」と聞いた時に最初に持つイメージである。実はわれわれ日本人の多くは「アフリカ」に対する印象は濃くない。関わりが薄いのだから仕方がないが、肉食獣と草食動物が死闘を繰り広げるサバンナや、その遥か後方に聳えるキリマンジャロ。あるいはビクトリア湖やサハラ砂漠。どれも漠然とした「映像」ばかりだ。
ところがフランス人やイタリア人にとって「アフリカ」は、海の彼方に展開する具体的な「土地」であり、帝国主義的な目で見れば涎の出るような「稼ぎ場」だし、逆にアフリカからヨーロッパへ出稼ぎに来ている人々にとっては「悲しい故郷」であろう。
地中海を南北に渡る「航路」は何千年もの昔からの「ドラマ」の背景だった。比べるのは妙だが「ご覧、あれが竜飛岬、北のはずれと」ぐらいの感情はついて回っていたに違いない。
青々としたメディタレイニアン・ブルーの海原の先に、屹立する「雲の峰」は、冒険心だったり郷愁だったりをたっぷり誘い出してくれる。飛行機に乗る金も無く「定期便」に大きな荷物を担い込む人生。
白亜のクルーズ船の隣に舫われた錆びだらけのポンコツ船を見ながら「アフリカ行き」だってさ、と呟く作者の姿も見えてくる。(本井 英)