津田伊紀子 第一句集『涼しき灯』(2010年4月)

『夏潮』、『花鳥来』(深見けん二主宰)所属の津田伊紀子さんの第一句集『涼しき灯』(ふらんす堂2010年4月)


特集 津田伊紀子 第一句集 『涼しき灯』 (『夏潮』2010年10月号)


遠きまなざし ―津田伊紀子句集『涼しき灯』を読む―  児玉 和子

 この度、私達は津田伊紀子さんの作品を三百余句、まとめて拝読出来る機会を得た。句会で御一緒するたび、その正確な写生力、言葉の選択の美しさに圧倒されている者にとって、まことに仕合わせな機会である。

  「涼しき灯」と題されたこの句集を読んで、最初に印象に残ったことは、作者の遠くを見るまなざしである。

一湾の真珠筏に東風の波
茸採り木の間がくれに遠ざかり
遠ざかり来し霧ごめの竹生島
冬晴れの日の残りゐる遠き壁
遠き灯の更けて露けき島泊り

 作者は遠くを見ている。自分と遠くのものとの間の空間を見ている。その空間を埋めているものは限りない抒情である。正確な写生、適切な描写力を周囲から認められているこの作者の句に惹かれ、深い感動を覚えるのはどの作品の底にも広く深く存在しているこの抒情のゆえである。

  そう気がついて読み返せば、それは「遠くのもの」に限らず、身近なもの、人事を詠んだ句にも必ず作者の「柔らかい心」「震えている心」が存在していて、その上での写生であることが良く判ってくる。

おしろいや島に古りたる写真館
しらじらと刈り倒されし竹煮草
秋草の中をまっすぐ石畳
焚くばかりなる枯菊に日当れる
海底の砂紋に秋日さしこめる

   「寂しさ」ともいえないような寂しさ、心のゆらぎを感じた作者は眼前の景をそのまま掬い上げてゆく。

  勿論、心が震えるのはそうしたものに出会ったときばかりではない。

バスに手をあげて横切る焼藷屋
福引のはずれの玉の弾み出づ

  「おやおや」とにっこりしてしまう時も、のがさずにとらえて句にしてしまう。この作者の柔軟な心を「少女のような」などとは申しますまい。成熟しつつ柔軟でありつづけること。これこそ伊紀子さんが伊紀子さんであることなのだ。そして私が憧れていることでもあるのだ。


函館や地図のかたちに涼しき灯  伊紀子

 御句集の中にこの句を見つけた時、御一緒した十年前の北海道の二泊三日の旅が昨日の様に思い出されました。

 早速その時の会報を再読、旅の一日目の最後の吟行地が夜景の函館山でした。初夏とは云え六月の北海道の夜は肌寒く、その事が却って夜景をより鮮明に見せてくれたと思います

 北海道は日本地図の中にあって一番覚え易い容をしている様に思います。良く見ればそれなりに複雑ですが菱形で事足りる場面が多々あります。そんな親しみ易い容を中七の「地図のかたちに」と具体的に詠われました。この事でこの御句により一層の共感を覚える方々が沢山いらっしゃるのではないでしょうか。そして下五の「涼しき灯」の季題で句全体を大きく纏められ、函館山の山頂から見下ろす夜景を存分に描いております。

 たった一つでも「涼しき灯」であったりこの御句の様に雄大な地図を縁取る「涼しき灯」であったり季題の自在の面白さ、楽しさを改めて実感いたしました。

 嘗て初心者の私に「俳句は麻薬よ」とおっしゃった伊紀子様の言葉の意味がこの頃やっと理解出来たように思います。これからもその言葉を大切に俳句に遊びたいと思います。(兵藤芳子)


婢に一と日のいとま鳥渡る  伊紀子

 伊紀子さんとはじめて打解けておしゃべりをしたのは、昭和六十年八月四日、虚子先生の武蔵野探勝のあとを追う旅、新武蔵探勝(第十三回)奥多摩での一夜の宿河鹿園の渓流を眼下にした二階座敷にくつろいだ一刻のこと。

 昭和二十六年から俳句を学んでおられた伊紀子さんのお話は、「生涯に虚子選一句」まで出来た句の下五をどうしたらよいかと久雄師にご相談したところ、たちどころに、「伊紀子の忌」とつけられたと。

 ひどい先生と二人で大笑いしたのであるが、たしか朝日俳壇への投句だったと伺った覚えがある。その虚子選の一句が、冒頭にとりあげたお句

  婢に一と日のいとま鳥渡る

だったとお句集が上梓されてから教えていただいた。

 虚子先生は昭和三十四年四月八日ご他界、遅れて俳句を学びはじめたものには詠みえないことではあるが、このお句の空気は決して平成の世のものではない。

 具体的な情景はわからないが、下町の商家の奉公人でもあろうか、大川の辺に佇んで空を仰いでいる様が想像され浅草を知り尽くしておられる伊紀子さんらしいと思うのである。平凡な日常、なんでもない町中の光景全てを詩にしてしまう伊紀子さんのこれからのお句を楽しみにしている。(田島照子)


火をかけし落葉に落葉掃き寄せて  伊紀子

 頂いた句集「涼しき灯」を読み進めて行くうちに気付いたことは、どの句にも緩やかな時間の経過があり、ひそやかな時の流れを、そして人が誰でも積み重ねてゆく時を句に託し、ゆっくりときめこまかに詠い上げてあることである。

 よく俳句は「一瞬を切り取る」とも聞きますが、ものの動き、変化に対してひらめきで無く、おゝらかに対応し、子細に観察して一句に仕上げてある。どの句にも永遠に流れ去ってゆく刻の姿を止どめている。

 そんな視点にたっての掲句。

 もう煙が出て燃え始めている落葉の山に、また風が出て新たに降ったか、掃き残した処から掃いて来たか、集めた山が幾つもあって、それを火を付けた山に移しているか、いずれにしても落葉をまた掃き寄せてゆくゆっくりとした時間の経過が、山寺か、里の寺か、いかにものんびりとした和尚さんの姿が彷彿と湧き、落葉を降らせている境内の樹々の間に入ってゆく煙の行方まで気になってくる。

 落葉焚とすればそれで済んでしまう味気無さを補なって余りある句の形に仕上げ、しみじみと冬に入ってゆく万象 を落葉の煙に託して描写している作者が見えてくる。(辻梓渕)


門火焚く思はぬ風の起りけり  伊紀子

 お盆の十三日、精霊棚から迎火を焚くための何やかやを持って門先に出た。娘さんの家族も作者を手伝って神妙についてきてくれる。塀に苧殻を立てかけ、線香に火をつける。先祖の霊が迷いなく自分の家に帰って来られるように煙を上げるのだという。朝から暑くて風死す状態、全くの無風だったのに急に風が起きた。そしてあっという間に苧殻その他を燃やし尽くしてしまった。焚いた火が風を呼ぶのだろうか。ここだけつむじ風のようでもあった。家族の慌てる様子が浮かぶ。帰りたくてたまらない仏が起す風かもしれない。突風のような不思議な風を伊紀子さんの句はただ客観的に述べただけであるが、精霊たちへの深い情を呼び覚ます。送火の場合はまた鑑賞が違ってしまうが、迎火の句として読ませていただいた。実感の句は余韻を生む。

迎火や風に折戸のひとり明く 蓼太
風が吹く仏来給ふけはひあり 虚子

 余談であるが、諸霊は迎火の時は胡瓜の馬に乗り一目散に戻り、送火の時は茄子の牛に乗って後を振り返り振り返りゆっくり帰るのだと教えられたものである。(飯田美恵子)


金魚いま袋の水にしたがへる  伊紀子

 季題は「金魚」。袋というのは巾着に仕立てられたビニルの袋だろう。金魚売から買って帰るというよりも、虚子編新歳時記にある「縁日の路傍には掬ひ取りをやらせる金魚売が店を張る。」の帰り道の景としたい。

 縁日の金魚掬いで素早く逃げる金魚に悪戦苦闘の末に掬い上げた数匹の金魚が、いまはぶら下げた袋の僅かばかりの水の中に浮かんでいる。金魚はもはや逃げようともがくこともなく袋のかたち、水のかたちにしたがうばかりである。

 「金魚」と「袋の水」以外は省略されているが「いま」とあえて出すことでその前の時間、即ち縁日の喧噪や匂い、電灯に照らされて散り惑う金魚の色や水のきらめきが想起されて来る。そして今は身じろぎも出来ないけれども、連れて帰れば水鉢や水槽へ放されるであろう金魚の持つ儚さと美しさ、その小さな命に対する慈しみの目まで含めて「いま」の一語に集約されている。

 さて、件の金魚の袋を持っているのは浴衣姿の子供だろうか。もう一方の手を母に引かれて行く家路。まだ縁日に心残りがあるのだけれども「金魚を早く水に放してあげようね」と母の言葉に促されているのかもしれない。

 句の中には「袋の中の金魚」しか語られていなくても何処かに親密な人々の気配が感じられる句である。(櫻井茂之)


春灯にけふのエプロンはづしつつ  伊紀子

 「けふのエプロン」という措辞が、まず第一に印象に残りました。毎日の生活で、毎日エプロンをするけれども、いつかと同じ「けふ」は決して無く、その日その日を大切に、丁寧に過ごしているということが伝わってくる、伊紀子さんならではの表現だと思います。そして春灯という季題の持つ明るさから、家族が集まったのか、来客があったのか、そんな特別なことは無かった日だったのか、ともかく忙しくも楽しかった「けふ」」だったことが想像されます。
 台所と部屋の片付けを終えて、ほっとした気持ちでエプロンを取りながら、ふと、静まり返った部屋を照らす明かりに目が行った作者。それがごく普通の蛍光灯でも、「春灯」という季題を知っている目で見れば、感じるものが違ってきます。一日の余韻をその春灯に感じ、疲れたけれども心地よく、満ち足りた気持ちを春灯にゆだねるほんのひととき。省略の利いた軽やかな句にまとめたことで、かえって余韻の深い句になっています。普段は無意識のうちに過ごしている時間が、一つの季題の力を借りて句として掬い上げられている、俳句の良さ、楽しさを再確認できる句だと思いました。(石本美穂)

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