月別アーカイブ: 2012年10月

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第40回 (平成17年9月9日 席題 狗尾草・夕月夜)

迎火にかがむ父の背頼りなく

父の背中が迎火に屈みこんでいるのを見て、「ああ、お父さんも年を召されたなあ。」と思って、ある感慨にふけっている娘、あるいは息子の句です。元の句が「苧がら焚くかがむ父の背頼りなく」でしたね。そう言うと、「苧がら焚く」がどこかへほったらかされてしまう。あまりノウハウ的なことは言いたくないけれど、用言とか、動詞や形容詞が多いと、句が弱くなって、締まりがわるくなる。元の句だと、用言が三つ入ってしまう。「焚く」という動詞と、「かがむ」という動詞と、「頼りなし」という形容詞と、三つはいってしまう。と、句全体がわーわーわーとしてしまうのね。俳句は、どちらかと言うと、名詞が多い方が締まる。表現がぴしっと動かなくなる。「迎火にかがむ父の背頼りなく」とすれば、迎火という体言で、かちんと締まりが出てきます。ただそういうノウハウ的なことは、僕はあまり言いたくなくて、それが自然とことばに出てくるような修練をお積みになる方がいいだろうと思います。どうしてそんなことを言うかというと、俳句は知的に操作をすると、大体死んでしまう。だから、あんまり知性を使わずに、聴いている時は、「そうか。そうか。」と聴いておいて、忘れてしまった方がいい。今言ったことを聴き忘れて、何回も言いますから、だんだん何回も言っていくうちに身に付くので、俳句はそんなことでいいんです。

不動明王の陰からとかげかな

不動明王はどこにあってもいいんですが、この場合はお堂にしまってあるお不動さんではなくて、どこか外にあって、近くに行者の滝みたいなのがあって、だいたい不動明王というと密教系の、どちらかというと高野山系統のお寺が好きなんですね。その庭にお不動さんの石像があって、「あ、御不動さんだな。」と思って見ていたら、ちょろちょろちょろっと、何かが動いて、蜥蜴だった。「この蜥蜴もお大師様の恵みの中で生きているのであろう。」と思った。

ひとりゐて何するでなく秋の宵

いい句ですね。「夜長」という季題が一方にありますが、「夜長」と言わずに、「秋の宵」と言ったところに、あるニュアンスがあります。それでいて、「秋の暮」ではないんです。「秋の暮」はまた独特の、さっき牛の句がありましたが、あるいは芭蕉さんの句で、「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」という、これは蕉風開眼の句と言われています。あるいは芭蕉さんの最晩年の句では、「この道を行く人なしに秋の暮」というのがあります。そのような孤独が煮詰まってしまったような気分が、「秋の暮」ですが、「秋の宵」はそこから解き放たれた、ある安らかさがあると思います。その「秋の暮」という時刻が終わった、「秋の宵」という時間の安らかさが、この句には満ちていて、なかなか情のある句だと思いますね。

炎天をただ黙々と蔵の街

面白いです。どこにだって蔵の街があります。たとえば、この近くだと川越なんて街も蔵の街です。どこだってかまわないのです。古い商家の連なっている街で戦災にも会わずにといった街です。この句の面白いのは、夏の炎天を歩いているんだけれど、たくさん蔵があるんで、蔵を愛ずる気持ちはもうなくなってるんですね。あと十分くらい歩くと、O O 寺がありますから。そこには羅漢さんがあるので、そこで説明しましょう。なんて言うので、そこまでは、暑い中をただ移動するばかりで、最初見た時は蔵の街が珍かで、「あ、面白いな。」と思ったんだけれど、すこし飽きてきながら、次の目的に向かって、ひたすら歩いている。炎天の日に、歩こう会かなにかで、あるいは歴史なんとか会で現れた、ある人物が目に見えると思います。

門衛の靴往きもどりえの子草

うまい句ですね。今日の席題を得て、お作りになったのだとすると、なかなかこの方も手だれという感じがしてまいりましたね。皮肉ではございません。頼もしい限りです。この句は、今で言えば、劇画にでもありそうな、クローズアップですね。えの子草と靴だけをクローズアップさせて、膝から上はスポットからはずしてある。その門衛のやることなしに、門と衛士の小屋を往復している、そのしょうことなしの足取りがえの子草の所を、ゆっくりと、ぱっぱっぱと行っている。それをえの子草は知ってか知らずか、風にそよそよと揺れているという、なにか人生とか世の中は、なるほど、こんなことがあるんだよなという、まことに頼もしい句を拝見して、嬉しく思った次第です。

湘南吟行会でした。英

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湘南吟行会で鎌倉光明寺に伺いました。有名なお十夜が済んだばかりでのんびりしたご境内でした。昼前に寿福寺に伺い、高木晴子先生の十三回忌のご法事の末席につらならせていただきました。14時からは生涯学習センターで句会でした。一日中秋晴の素晴らしい日でした。英

京都へ伺い、「氷室」20 周年をお祝いしました。英

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早朝逗子発。小田原経由で京都に伺いました。金久美智子さんの「氷室」20周年のお祝いに参ずるためでした。祝賀会までの時間を山科の疎水見学に使いました。かつては虚子が舟で近江から京へ遊んだ水路です。「氷室」の会は和やかな良い会でした。21:15発、帰途に就きました。英

夏書11月号、校了英

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午前中、新宿で二校を済ませ、校了となりました。26日には発送出来そうです。午後は新宿百人町の俳句文学館に寄って、調べものをしました。池内信嘉が息子のたけしに語った昔話が一冊になっていることを知りました。池内家の昔が良くわかって楽しい本でした。英

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第39回 (平成17年9月9日 席題 狗尾草・夕月夜)

もろこしのひげを尾にして瓜の牛

「瓜の牛」って、つまり精霊様が乗ってくるものだと、すぐわかるんだけれど、元の句が、「もろこしのひげを尾にした瓜の牛」。いいんだけれど、若干口語的。やっぱり、「もろこしのひげを尾にせし」、あるいは、「もろこしのひげを尾にして」と、すんなり詠んだ方がよい。「尾にした」だと、口語的な言い方が、そこだけ飛び抜けて目立ってしまう感じがして、もったいないですね。瓜の牛に工夫がしてあって、面白いと思いました。

牛小屋に牛の帰りて秋の暮

これはまた朴訥というか、昔にありそうな句ですね。なるほど牛というものの持っている秋の暮との匂い合いは、牛の持っているもわーっとした感じと秋の暮の気分がよく出ていると思いますね。

行列のチョコレート買ふ九月かな

「いつの間にがらりと涼しチョコレート」(用字未確認)という句が星野立子にありますが、チョコレートというのはなるほど、暑い時には感じないんですが、ひゅっと涼しくなった瞬間に、急にチョコレートが恋しくなるような、チョコレートの甘さを受け入れられる気分がしてくる、それが九月なんだなあと思いました。

マンションへ救助のボート秋出水

時事的な句ですね。確かに秋出水で、ちょっと川が増水したくらいを平気で秋出水と作った時に、今は亡き、藤松遊子という先輩が、水が出て氾濫しなければ秋出水ではない。それを秋出水とするのは、季題に対して失礼だと言って憤慨してをられたのを、思い出します。今回のあの事件は、秋出水そのものです。 こういう句で、「都会のマンションはけっこう脆弱で、ちょっとした雨でこんな事態になって」なんていう風刺的な解釈をしたら、この句はつまらない。この句を解釈する時は、形です。マンションという大きな四角い形の所に、秋出水で水がすぽーんと入っていて、そこに救助のボートがつけてあるという形です。その形で味わう。たしかシスレーに、パリのセーヌ川の秋出水を描いた有名な絵が、オルセーにありましたね。あれも出水の社会的なことでなくて、形なんですよ。もちろんシスレーなので、点描主義みたいになって、光と影で描いているんだけれど、俳句も、そういう内容をどうするというのでなくて、フォルム、形ですね。それをぽんとやって、面白い形だなという、そういう味わい方もあるんで、この句はそう味わうべきだと思います。

手触りは猫の尾らしやえのこ草

まことに素直に、童女のような句ですね。触ってみたら、猫の尾っぽの方に近いじゃない。だけど名前は「えのこ」=犬の子。そこに諧謔味を覚えた句だと思います。