花鳥諷詠ドリル」カテゴリーアーカイブ

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第74回 (平成18年4月4日 席題 残花・朝寝)

コーヒーの香りてきたる朝寝かな
席題の句というのは、果敢に挑戦していただきたいと思いますね。席題の題詠と嘱目とは、ちょうど両輪なんですね。題詠と言うのは、自分の中で一度濾過された記憶が凝縮してきますから、割合に充度の高い文学性というものが、どこか出てくる。嘱目というのは、現実そのものですから、それは非常に自堕落ですから、どれを詠んでどれを詠まないかというのは、大変な技術が必要になってくる。だから嘱目の方がやさしいという人が多いんですが、もしかすると嘱目の方がむずかしいかもしれない。季題としての充度の高い景色は何なのかということを考えると、けっこう選択が厳しい。でも、事実だという強みがあります。題詠はどれも眼前の事実ではありません。記憶であったり、あるいは映画の知識とか、そんなものを全部援用しますね。それだけ心に深く刻まれている景だから、文学的な純度は高いことが多い。掲句の、いかにも平和な幸せな家庭の、自分が寝ていても、誰かがコーヒーをいれてくれる。そんな幸せな家庭を背景に考えられるような、そんな一つの気持ちがありますね。いい句ですね。
あと十年か残る命の朝寝せん
元の句、「あと十年か残る生命の朝寝かな」。「朝寝かな」では句にならないですね。「あと十年か」で、切ってしまってますからね。あと十年ぐらいかな。と思いながら、では残った命で、今日は朝寝をしましょう。というのは、それはそれで、一つの感じだし、ふざけているのでも何でもなくて、人生ある年になれば、あと何回こんなことがと思うのが、常ですね。それを詠んでいくのがこれからの我々の俳句だし、明治大正にはなかった、昭和の末から平成にかけての俳句の大きなジャンルが、「老」と「死」でしょうね。そういう意味では、老を受け入れながら、でも今を切実に生きている感じが、この句にはありますね。「かな」ではなくて、「さあ、しよう。今日は朝寝しちゃえ。」そんな感じがあるといいと思います。
漸うに桜仕舞の嵐かな
今日はこの句に出会えて、よかったと思います。「桜仕舞」ということばが、あるかないか知りませんが、こうやって使っていると、ありそうに思えますね。ひとしきり、桜で皆が浮かれていたのだけれど、残花の頃になって、すっかり桜のことを忘れるような嵐があった。それを「桜仕舞の嵐」という言い方が、今日始まったとしたら、これは素晴らしいことばの歴史を刻んでくれたなと思います。ずるずる残っていて、「花見しようと思えばできるのよ。」というのが、「これだけ吹いてしまったら、もうね。」と、すっかり花見の浮かれ気分から、ハレとケの「ケ」の生活に戻っていく。そんな感じがこの句にはあると思いますね。
朝寝して家中に人のけはひなし
これも幸せなことですね。私なんか朝寝しようが起きようが、家中に人の気配はないんです。こういう句が詠める人は、いつも何人かの人がいて、「あなた、行ってくるわよ。」と言って、妻が出ていった後、また寝ていた。「あー、何にも音がしないや。俺一人だな。」という、それが家族の時代が変わっていく。若い夫婦だった場合に、朝寝しようと思ったって、子供がそんな暇は与えてくれないし、いつもわいわい騒いでいる。それが、段々子供が育っていく。そして妻も自分の道を歩いていく。「俺だけ残されている。」そういう自分と家族の長い歴史の中の、ある一齣にさしかかっているという考えがこの句にあると思いますね。だから偶然、作者は自分の経験の中で、そんなことがあったと、お詠みになったんだろうけれど、実は作者、ならびにご家庭の歴史の中のある時点を、きっちりお詠みになっている句だろうと思います。
コバルトの点乱れ飛び蛍烏賊
こういう言い方でいいんでしょうね。蛍烏賊というものを、皆様どの位ご存じかわからないけれど、本当に暗くして水槽に入れておくと、こういうコバルトの点が乱れ飛ぶようなことがあります。あるいは、富山県の滑川が中心なんですが、沖に生け簀がありまして、夜に見にいくんですよ。そうするとコバルトの点が飛び交うように、ぱーっと生け簀の中で逃げ回る。周りに何も光るものがありませんから。よく、こういうふうにきちっとお詠みになれたなと感心しました。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第73回 (平成18年3月10日 席題 梅一切・涅槃)

春の土ほっこらと芽を包みをる
「ほっこら」というのがいいですね。擬態語、擬声語というのは、手擦れてくると、つまらなくなってくる。「ほっこら」は、春の土らしい感じがあって、うまいな。「芽を包む」ということも、面白いと思いました。
緞帳の如涅槃図や美術展
これもいいですね。お寺さんの本堂であれば、誰が見たって涅槃図なんだけれども、それをお寺さんの本堂でなくて、美術展ということでお寺さんから借りてきた。タペストリーのようにぶら下げた。なにか明るくて、涅槃図の抹香臭さがすっかりなくなって、美術品の緞帳のようだった。という、いかにも涅槃図が面食らってしまっているなという感じがあって、現代的な俳諧の目だなというふうに思いました。そして表現にそつがないですね。「美術展」ということばで、全部決めてしまっている。
ぽつぽつぽ柳の新芽踊り出る
これはいかにも作者らしい句だなと思いました。「ぽっぽっぽ」というのは、鳩じゃない。さっきの、擬態語、擬声語の話で、柳の芽の一粒一粒が「ぽっぽっぽ」と言ったところが、これはこれで新しいと思って、面白いと思いました。
大番所百人番所梅の花
これは勿論、千代田のお城であることは、ことばからわかる。「大番所」「百人番所」。その千代田のお城も、今は閑散と、広々としている。お侍の姿の無い所に、梅が頃とて咲いてをる。昔もそうだったのかもね。ということで、いかにも千代田のお城の近くに住んでいる人の句だなと思いました。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第71回 (平成18年3月10日 席題 梅一切・涅槃)

蜆汁温め直す雨もよひ
いいですね。どう鑑賞してもいい。雨が降っているので、出掛けないで、お酒などつけてもらっている。どんどん雨が募ってくる。ご飯を食べようかなという頃には、汁が冷めてしまっている。ちょっと待って、温めるから。「雨もよひ」ということばには、いかにもこうしたしっとりとした感じがあると思いますね。元の句「雨もよい温め直さん蜆汁」。雨もよいが先にあると、「ちゃんと聞いていて。雨もよいよ。」という感じがしてしまう。さっき言った、説明になってしまう。「温め直さん」はいかにもリズムがわるい。また「直さん」と意志の助動詞を使う必要はない。掲句のようにすると、いかにも新派の一幕のような、だらしない酒飲み男が出てくるような気がしますね。
春水に映るものみな柔らかく
誰がこの句を作ったのかと楽しみにしていたら、作者が分かって、よかったよかったと思いますね。この柔らかい捉え方。何ともまあ、立子先生に通じるような、いかにも柔らかい、肩をいからせていない、それでいて的確に捉えるものを捉えていらっしゃる。そんな感じで、この句を見ると、向島百花園の木の杭のある、映るものが柔らかく見える景を見るようなことを想像しながら、この句を拝見しました。とくに「映るものみな柔らかく」と言いさしたあたりが、いかにもいいなと思いますね。
花房の揺るるミモザに満つ朝日
ちょっと下五の「満つ朝日」が窮してまして、「満つ」は要らないかもしれませんね。「朝日さす」でいいのかもしれませんね。「満つ朝日」で、ちょっとつづまってしまう。さっきの二日さんの句の時に言いましたけれど、俳句はたった十七文字で、ぎゅっと詰まっているようだけれども、中はけっこうゆったりと詠んでいける。「満つ朝日」というは、作者が言いたいというのが、外へ出てしまっていて、その分、損していると思います。ただし「花房の揺るるミモザ」という言い方は、昔は切り花しかなかったのが、近年はミモザを植える家が多くなってきて、こういう景が普通になりましたですね。
咲き満ちて閑かなる梅夜となりぬ
いいですね。今日のこの作者の句ではこれがいいですね。単線もよかったけれど。ただ、元句の「寂」を書いて、「しずか」と読むかしら。ちょっと気をつけないと、いわゆるルビ俳句になってくる気がする。つまり読まない字を、わざわざルビふって、その間の意をニュアンスで出してしまおうという、ちょっとずるい。閑居の「閑」、それなら「しずか」と読めますから、この字になさるといいかもしれません。いかにも、ああ、夜になってしまった。梅は特に夜の梅。江戸時代以来、闇の中の梅の香りを楽しむというのは、たしかお菓子の名前にもなったと思いますけれど、江戸時代以来の美学なんですね。それをまたこういうふうに詠まれてみると、ああ、なるほどな。と面白いと思いました。
まんさくの無精髭めき咲き満てる
あまりきれいじゃない。いかがなものかという感じがしなくもないんですが、そこを詠んでみたというのが、面白いですね。


花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第70回 (平成18年3月10日 席題 梅一切・涅槃)

白き鉢にねぎの青々田螺和
これも説明の話に照合しますね。元の句、「白き鉢ねぎ青々と田螺和」。これは散文です。特に「ねぎ青々と」の「と」がいかにも散文なんですね。それよりは、「ねぎの青々」の方がずっと諷詠になっている。そういう心持ちにならないとね。心持ちは、説明するような心持ちの時には、やっぱり説明っぽくなるし、嬉しくてしょうがない時には、説明っぽくならない。ことばが弾むんですね。それは腕というよりは、その時の心持ちかもしれませんね。
二ン月や天神様の絵馬の嵩 
似た句が無くはないんですが、ちゃんと言えているという点で、及第点の句ということで採りました。「いかにも」と思いますけれども、「天神様の絵馬の嵩」という捉え方が、ざっくりとした言い方で、それはそれでよかったんだろうと思いますね。
芽柳の四条河原にほのめきて
いいですね。四条の河畔か河原か、ちょっとわかりませんが…。川床の出る辺りには、河原にも柳があるかもしれません。(「河畔ですね。」)どっちでも構わないんですが、四条ということの感じがひじょうに出てをって、昔から四条河原あたりというのは、見世物がたくさんあった。それこそ象やライオンを持ち出してきたり、あるいは打ち首、獄門などと、晒し首もあるわけで、京都の一大スクエアーなわけだけれども、その辺り、今が今とて柳の芽が青々とある。ということになると、それから、灯ともし頃、どちらかへいらしたんでしょうか。などと、想像のついて、楽しい句だと思いますね。「ほのめきて」というところに、柳の芽を表現していながら、街の雰囲気が春のほのめきを感じさせるということになると思う。
単線の駅にあふれて梅見客
まあ、これはいかにも青梅線沢井あたりの景色かなという感じがしますが、梅の頃。単線の電車が着くと、人がわっと降りた。梅の里なんでしょうね。単線の小さな小さな駅だけれど、今ばかりは人で溢れかえっているということですね。勿論、これはいい句で、非の打ち所がないんだが、もしかすると、「単線の駅にあふれて梅の客」の方が上品かもしれないですね。梅見客というと、テレビのニュースみたいになってしまう。梅の客というと、ちょっとゆったりとしていますね。「梅見客」というと、音のリズムがちょっとせこせこしている。「梅の客」というと、ふわっとしている。梅の里があって、単線の鉄路があって、細い手入れをしていないようなホームがあって、そこに溢れた人がある。「梅見客」というと、さかさかさかとしてしまうんだけれど、「梅の客」というと、ばらけた感じがしてくる。それはことばのニュアンスの問題ですね。
春の日やダックスフント急ぎ足
昔は日本にはダックスフントなんていなかったんでしょうが、段々に西洋犬が増えてきた。ダックスフントとしては普通に歩いているんだろうけれど、人が見ると急いでいるように見える。そこが俳諧ですね。元の句「ダックスフントの急ぎ足」。「の」が入るのは、散文です。「の」を入れないで、充分わかる。そこの字余りは効果がないどころか、リズムを崩してる分だけ、損してしまうと思います。

花鳥諷詠ドリル ‐主宰の句評‐ 第69回 (平成18年3月10日 席題 梅一切・涅槃)

日脚伸ぶ仕事帰りの空の色
仕事帰りに空の色が見えるようなお勤めというのは、割にいいお勤めです。最近は働かされてばかりいるから、空の色はなくなって帰る。そういうご職業だということは羨ましい限りです。「日脚伸ぶ」というのは、冬の季題です。ということは、今よりも大分温度が低くて、かつ日の入りも早い。立春前に少し日が伸びたなと気づくのが、「日脚伸ぶ」という季題で、俳人独特の季題です。「日永」と言ってしまえば、春の季題ですが、それは立春以降に、誰でも、日が長くなったね。暮れが遅いねという。ところが俳人は非常に敏感ですから、立春になる前に「あ、日脚が伸びた。」ということなんですね。だから、探梅と同じで、「日脚伸ぶ」も「探梅」もどちらも冬の季題だということを、よく心得ておいて作らないと、難しいかもしれません。「仕事帰りの空の色」というと、どんな色。「仕事帰りの空に色」というと、真っ暗だったのが、日脚が伸びたんで、空に色が感ぜられた。「空に色がありますよ。」「空に色」という言い方もあるということですね。
門衛にお光背のごと梅の花
ちょっとした錯覚というか、見た目。門衛と言われる者が今何処にいるかと言えば、皇居とか国会とか、そんな所だけでしょう。その門衛と目される人が立っていると、本人は気づかないだろうけれど、こっちから見ると、ちょうど仏様の光背のように見えた。本人は気づいていないというところに、この句の面白さがある。俳諧的だと思いますね。
鳥居にも寄りかゝらせて苗木市
お宮さんの境内で、植木市があったんでしょ。いろんな植木を立てているんだけれども、細くて充分立たない植木もある。それを、ちょうど鳥居に凭れかけさせて、売ってをった。神様もお許したもうだろうという句ですね。
音もなく降りて気づかず春の雨
元の句、「音もなく降りて気づかぬ春の雨」。それでは説明です。どうしてかというと、「気づかぬ春の雨」というのは、連体修飾になって、形容がずっと続いていく。どういう春の雨。雨が名詞で、春の雨。どんな春の雨。降っても気がつかない春の雨。と言う風に、修飾関係が出てくると、説明っぽくなってしまう。それぐらいならいっそ、「音もなく降りて気づかず」で切ってしまって、「春の雨」とすると、切れが生じた分だけ、説明くささが抜けて、諷詠になってくると思います。ここのところは、ご当人がおられませんけれど、俳句の肝要なところで、説明にならないようにするという。なんて言って、なかなか最初の五年、十年、二十年位はむずかしいんですけれども。何でも訊いて下さい。これは説明だよというのは、私ははっきりとわかっていて、言っているつもりです。
鳥獣も集ひ涅槃図余白無し
大変賛同者が多くて、私もこの作者がこの句をお詠みになったことを、嬉しく思います。俳句を始められて何年たつか、五里霧中の時もおありになったことと思いますが、先ほど皆で涅槃図を見た。その時に、こういうふうに俳句を俳句らしく、きちっとお詠みになれるという力をしっかりとおつけになったなということで、ご同慶の至りであります。いかにも誠実に涅槃図を見て、鳥獣が集って、どこにも余白がなかったというところに、無駄が無いし、こういう句がお詠みになれるようになれば、本当によかったなと思います。