白菜を積み上げてある美容院
元の句、「漬物用白菜積みて美容院」。これは説明ですね。勿論、銀座、青山の美容院の脇に、白菜を積んであるわけはないんで、どこか田舎の「美容室 XX子」といった美容室なんだけれど、ちょうど季節なので、白菜が十個とか二十個とか積んであるんでしょう。きっと仕事の合間を見つけて、白菜漬けをやろうとするんだけれど、それを「ああ、漬け物をやるんだなあ。」と気づいたのはいいんだけれど、「私は気づきましたよ。」というので、漬物用というのは駄目です。やっぱり、俳句というのは、白菜を積み上げてある理由を言うより、「何で白菜を積み上げてあるんだろう。ああ、田舎の美容院なら、こんなこと、あるなあ。」というふうに、読者に委ねなければいけない。読者の楽しみを奪ってしまっている。
神木の竹垣替へて師走かな
こっちは、いい句ですね。いかにも、神木の周りを人の腰の高さ位まで、竹垣で守っているというのは、よくあることですね。それを新年を迎えるので、宮司が「よし。ご神木をきれいにしよう。」というふうにした。というので、宮司のいかにも神様、神木への尊崇の念がよく見えて、よろしかったと思います。
富士にかかる雲に名前や枯茨
僕は、こういう作り方はなかなか出来ないんだけれど、一つの作り方。いわゆる取り合わせ、二物の衝撃と言われます。枯茨と富士山の雲と、直接関係はないんだけれども、言われてみると、枯茨の寒々とした感じと、雪をかぶった富士に雲が出来たり、出来なかったり、その雲が傘雲だったり、独特の呼び方があるのかもしれません。この地方ではね。そんな土地人との会話も想像されるような気がしました。二物衝撃ではあるんだけれども、実景が背景に見えてくるかもしれません。
掃き寄せて落葉の小山三つほど
こういう誠実な句はいいですね。どこにも無駄がない。言い過ぎてない。そして言い足らないところもない。こういうのは、形のいい句だと思いますね。
大川の岸辺の小春日和かな
これも同じです。隅田川を「大川」と言ったところに、江戸の大川を慕う気持ちが出ているし、江戸時代と変わらず流れている隅田川に対する気持ちが出ているなと思いましたね。芭蕉さんも、こんな小春日和で、日向ぼっこをしたかもしれない。