地蟲出て相も変らず人愚か
虚子先生みたいな句ですね。「蛇穴を出てみれば周の天下なり」という「五百句」にでてくる句がありますが、あれと同じ境地でしょうね。年々歳々、毎年毎年、地蟲は出て来ては、半年以上地中に過ごして、また死んだり、穴へ入ったりする。また春になって地蟲が出てきてみると、「おい、相変わらず人間ていうのは、馬鹿なことをやっているね。」という、大自然の大きな営みの中での、さざ波のような人間の愚かな様々の日々が見えてきて、先生のお作りになるような句だなと感心しました。
廃校の決められてゐて開花かな
これ、面白いですね。人間が出たり入ったりして、過疎になったりする。そして、廃校になることが決まっている。その校庭の庭には、今年も去年のように桜の花が咲いたよ。というんだけれど、「(前略)桜かな」ではなくて、「開花かな」。ちょっと面白い、ある新しみがあって、面白いと思いましたね。勿論、花は桜の花です。
寺庇焦げよとばかり修二会の火
これもいいですね。こうやって、連想から句に仕立てあげる力というのは、なかなか大事です。そうやって作る力を鍛えていくことで、嘱目の時にぐんと深くなるので、大事です。しかも「焦げよとばかり」という持っていき方がいいと思いますよ。
友としてかつぎし棺春の雪
棺は柩という字があるんだけれど、どちらがいいんでしょうね。柩をかつぐ人数はせいぜい六人、息子や甥とか。ひじょうに特別な友人で、ぜひかついで下さいと家族達にも言われる。そういう間柄だった。そういう感じがよくわかって、春の雪の淡い悲しさも一段と。特別のやつだったのにな。向こうの家族も俺を特別と思っていた。そういう人なんだということがよくわかって、こういう句を見ると、俳句は散文よりも深いことを言えるという気がしますね。
湯気立てる白アスパラのしたり顔
この句を採るか採らないか、悩んだんですが、この句を読んで、鼻のところに茹で上がった白アスパラのにおいがしたんで、採りました。最近は日本でも、白アスパラがよく出てくるけれど、昔は缶詰しか出てこなかった。フランスに行くとアスパラガスの季節が決まっていて、突然パリ中のマルシェに白いアスパラガスが出てくる。マルシェの金物屋さんに円筒形の白いアスパラガスを蒸す鍋が出てくる。季節感そのもの。うまく茹で上げられたばかりのアスパラ、それを茹で上げた主人はやったーという気持ちがして、茹で上げられたアスパラガスはやられたという、したり顔をしている。日本だと食べたいものがあると、二月、三月前から出るけれど、あの国の人は出るまでじっと待っている。いかにもこれだという気がしていただきました。
白梅に肩をいからせ烏をり
この句、面白いですね。何で烏が肩をいからせるか、わからないんだけれど、見ていたら、烏が妙に好戦的というか、威張りまくって「寄るな。」と言っているような、そんな烏の感じが白梅でいっそうその黒さが強調されて面白いと思っていただいた次第です。