私は美穂さんファンである。誤解を与えない様に云えば、美穂さんの俳句のファンである。いや実は人間としての美穂さんのファンでもある。結局ファンなのである。証拠に句会で美穂さんと一緒になる機会があれば、美穂さんの句ばかりを選んでいることが多々ある。ファンとして、頼まれてもないのに、勝手に句評させていただいた。
最近、岸本尚毅氏の著作の中で、「虚子は俳句に無理をさせていない」という表現にであった。散文にも絵画にも出来ない、俳句にだけしかできない事柄についての言葉である。
美穂さんの句集を読み、まさにこのことが思い起こされた。目にした季題、体験した人事を無理のない言葉そしてリズムで一句に仕上げている。一読して意味は明解、口に出して読むと気持ちがよい句ばかりである。
この句集のほとんどすべては、季題に忠実な写生句なのだが、その場にいるすべての人を温かな気持ちにする美穂さんの人柄がにじみ出ているように感じた。
秋燕に出会ひし旅の終りかな
季題は、秋燕。帰る燕のこと。旅の終わりの切なさが、去りゆく秋燕のあわれに重なった。かといって、センチメンタルな感情に流されてはいない。というのも、やはり切れ字の「かな」が効いているのだと思う。「終わりかな」と言い切ったことで、この旅も充実したもので、もはや旅に未練はないといった感覚が表現されているように思う。
秋空を自在に飛んでいる燕の姿が目に浮かぶ気持ちの良い句である。
どんぐりを握つてをれば暖かし
拾いたてのどんぐりは冷たい。握りしめておくと、手の熱がどんぐりに伝わって暖かくなって行く。そして、握りしめている手を逆に温めてくれる。たくさん拾ったのであれば、袋やポケットに入れるのであろうが、手にしたのは2,3個。手の中に入れて持ち帰ったのであろう。読んでいると気持ちがぽかぽかしてくるような暖かい句である。
蜜柑々々と声しながら蜜柑剥く
季題は蜜柑。こう云われてみれば、私も蜜柑蜜柑などと云いながら蜜柑を剥いているような気持ちがする。果たしてリンゴはどうだろうか。おそらく、リンゴリンゴなどと云いながら、剥くことはしない。なぜ蜜柑は蜜柑蜜柑などと云いながら剥くかというと、気楽に手で剥けるからだろう。炬燵に座ったまま、それぞれが勝手に剥いて食べる。ある人は、独り言を言いながら剥いて食べている。ああ、この句はまことに蜜柑の句だと思う。
しつらへて客を待つ間の小春かな
大事なお客様なのだろう。念入りに掃除をし、迎える準備をした。「設える」のだから、茶会や句会といった何か特別の事をするのかもしれない。準備が終わりふっと一息ついたとき、小春を感じた。忙しさから離れたときに感じる自然の恵みを飾らない言葉で一句に仕上げた佳句である。
余談だが、この句が出されたのは、池袋の夜句会。私は特選で取らせていただき、以来ずっと記憶している句である。
雪として地に降り水に戻りたる
雪が降ってきて、地について水に戻った。工夫は「水に戻りたる」という下五にあろう。なるほど、雪とは元々空気中の水分が凍ったもので、もともとは水である。自然の大きな営みを感じさせる句である。しかし、散文ではわざわざこんなことは云わない。俳句だけがこのようなこと、自然の当たり前の理を歌う。俳句にしかできないことを無理のない言葉で一句に仕上げている。
『ラウンドアバウト』抄 泰三選
急流の緩みしところ水の澄む
御降りに万物濡れて静かなり
水色のスカート夏の老婦人
フリージア腕いつぱいに抱えたし
早朝のラウンドアバウト旅の秋
くたくたとなりて山茶花なほ残り
まだ日ざし届かぬ庭の残り雪
鹿どちの尻の並びて草青む
水切りの石よく跳ねて冬ぬくし
ぽつてりと革手袋の置かれある