「蓮刈る」といった季題が特にあるわけではないので、季題は「枯蓮」ということになろう。蓮は酸素を必要とすることが少ないので、ある程度の大きさがあれば、鉢でも育てられ、実際、町中の寺院の境内で「蓮の鉢」の並べられている景色をよく見る。
蓮を刈った坊さんはおそらく几帳面な人物だったのであろう。水面からきちっと十センチくらいに刈り揃えられており、「茎の数」が一目で判るというのである。不忍池などの枯蓮の景が、無残に乱れているのに比べて、枯れても端正さを失わないところに、仏法の有り難さを感ずる向きもあろう。「鉢に短かき茎の数」というきっぱりしたリズムが一句の生命である。(本井 英)