投稿者「管理人」のアーカイブ

鴨の群投網のごとく着水す        山本道子

 季題は「鴨」。俳句を作るようになる前は、「鴨」といっても漠然と冬の水鳥で、葱を背負ってきて食われたりもする、といったほどのものであったのが、毎冬、水に浮かぶ彼らを写生するほどに、マガモあり、尾長鴨あり、ヒドリ鴨あり、キンクロハジロありとなっていく。俳句とはこの世の中に「お馴染みさん」を増やしてくれる、有り難いものだとつくづく思う。この作者もそんなことを思いながら「鴨」を写生したのであろう。

 二十羽ほどの鴨が沼の上空を旋回したかと思ったら、にわかに着水体勢に入った。と見るうちに、ばらばらと着水。その微妙な拡がり方や速度から、あんな風に水面に落ちていくものを、水面の飛沫を、どこかで見たなあと考える。そしてかつて見たことのある「投網」の風景に行きついたのである。「ああ、あれだ」。俳句の生まれる切っ掛けの一つに、こうした符合がある。「ごとく」、「やうに」というあからさまな用語を極端に嫌う向きもあるが、それほど神経質になる問題でもないと、筆者は考えている。(本井 英)

神これを養ひ給ふ稻雀 鳥山一枝

 季題は「稻雀」。稲が稔ったころを見計らって、集団で飛来し、稲を食いあさる。この鳥害から稲を守るために、これまで日本人は悪戦苦闘を強いられ、「案山子」、「鳴子」、「鳥威」などの季題まで生まれたのであった。人は雀を憎み追い、雀は人を恐れる。〈雀らも人を恐れず国の春 虚子〉は昭和十一年渡欧の際の吟。虚子の脳裏には日本での「人と雀との」格闘が思い出され、一方稲作をしないイングランドの風土に思いをいたしての作であった。

 さてこの「雀」について考えるに、稲という作物を、人間のおこぼれとして享受するように、神によって作られたものである、とも考えられる。万物の創造主たる「神」を信じればそういうことになろう。

 「神これを養ひ給ふ」の文言がいかにも「聖書」の一節のように聞こえ、つい「アーメン」とでも言いたくなってしまう。考えてみれば(これはキリスト教的ではないが)「稻雀」もまた、我々人間と同じく造化の神によって、この世に生かされている存在には違いない。(本井 英)

雑詠(2016年1月号)

味噌蔵の裸電球竈馬		三上朋子
金風や弁柄の門鋲古りて
農小屋の叺に潜む竈馬かな
見晴かす畝まつすぐに大根蒔く
この鉢のどれかこほろぎ宿しをり	稲垣秀俊
やや傾ぎ子供神輿は揺るるなく		冨田いづみ
蟬の穴五センチ下で曲がるらし		山本道子
葡萄色(エビイロ)の花心や灸花盛り	児玉和子

味噌蔵の裸電球竈馬 三上朋子

 季題は「竈馬」。虚子編『新歳時記』では、「イトド」としか訓まない扱いになっているが、他の歳時記類の多くが「カマドウマ」の訓みを採用しているので、掲出句の場合はそれに従う。

 「味噌蔵」は味噌を貯蔵しておく蔵。毎年仕込んだ味噌樽が幾つも暗がりの中に静かに並んでいる。薄暗がりの引き戸を開けて、蔵に踏み込むと、目の馴れた蔵の中に「裸電球」がぶら下がっており、スイッチを捻るとそう明るくもない電球が「蔵」の壁を照らし出す。その照らされた壁に静かに留まって、影を曳いているのは「竈馬」であった。

 「味噌蔵」全体を蔽う「匂い」、「薄暗さ」、「静かさ」が何十年を経てもまるで変わらない世界として、作者を迎えている。(本井 英)