投稿者「管理人」のアーカイブ

主宰近詠(2017年12月号)

口うるささよ  本井英

叔母ひとり手狭まに暮らす残暑かな

新松子まつぼつくりも脇になほ

自転車の胸から上が蘆原を

沼風のおよびてはをり夏蕨

雀蜂に喰はれて蝶は翅四枚




秋鯖の腹のほのかに黄をおびし

あをあをと紡錘(ツ ム)のかたちに烏瓜

秋灯にあからさまなり御前立ち

鮒用の道具ですがと鯊を釣る

眺望や島崖は枸杞咲きさかり




女郎蜘蛛肥えてゆく日々空碧し

寺女の口うるささよ萩に雨

浜にはや佇む影は月の友

赤蜻蛉簗場の空の広からず

丘空に湧いて運動会の楽




裾風に雁金草の浮き上がり

林中の説明板の蛇拙な

蒲の穂の(シシ)むらだてるあたりかな

稲架の影稲架を外れてありにけり

風のよく通へる落穂拾かな

課題句(2017年11月号)

「落葉」   前田なな 選

主なき象舎に積もる落葉かな    津田祥子
朴落葉竜骨反らしをりにけり

いく片か落葉溜に瑞みづし     常松ひろし
ハイヒール埋めて銀杏落葉かな   田中 香
銀杏落葉や月の浜辺を歩むごと   櫻井茂之
シナモンを振つてコーヒー落葉時  前北かおる

光から雷鳴までを息つめて   木下典子

 季題は「雷鳴」で夏。「雷」の傍題である。他に「神鳴」、「いかづち」、「はたたがみ」、「雷鳴」、「雷神」、「遠雷」、「落雷」、「雷雨」、「日雷」などが傍題として挙がっている。よく見ると、これらはみな「音」ばかりで、同時にもたらされるはずの「閃光」、すなわち「稲妻」は含んでいない。そして、何と「稲妻」は秋の部に、「稲妻」、「稲の殿」として取り扱われている。

 つまり実際の自然現象としては、同時にセットで起きている「音」と「光」が、「歳時記」上では異なる季節の出来事ということになる。近代的な、あるいは西洋的な「合理主義」とはやや異なる、日本的な「感じ方」がここでは求められることになる。結論を先に言えば、我々日本人は「稲妻」の「稲」の部分に大いに反応し、「稲の妻」、「稲の殿」というように、稲が結実するための「外的な力」として「閃光」を考えていたわけである。俳句が決して全き「近代文学」では無く、「伝統の制約」を受け入れて成り立つ「伝統文芸」である所以はここにある。

 とにもかくにも、「稲」が無事稔ってくれることを希求する、悲しいまでの「祈りの心」に同感を覚えなければ、このような「不合理」を「近代的日本人」と称する人々が理解することは出来ないであろう。「俳句」とは、この列島に営々と農耕民族として暮らしてきた祖先たちとの「あるアイデンティティー」を感ずる人にだけ開かれている、狭い狭い「領域」に過ぎないのである。

 さて掲出句は、そうした一見矛盾に満ちた季題の世界を、精一杯合理的に詠むことに努力を傾注した一句と言えようか。「光」と叙して、実質的には「稲妻」を取り扱いながら、「光線」と「音響」の速度の差を(誰もが実感として知っている)、的確に、誰にでも同感できるように写生している。「息つめて」の表現も大袈裟でなく好感がもてる。(本井 英)

雑詠(2017年11月号)

光から雷鳴までを息つめて			木下典子
初蟬の聞こえ洗濯日和かな
紫陽花に木の影おとし一里塚
風鈴をいくつも下げて陶器市

退院や一日遅い鰻の日		矢沢六平
鉛筆で蟻のけんかを仲裁す		小野こゆき
冷麦へ氷ごろごろ落とし込む		山内裕子
あめんばう出合ひ頭の横つ跳び		河内玲子

主宰近詠(2017年11月号)

昔とも  本井英

避暑荘のウッドデッキに置くランプ

小庵と母屋を萩の隔てたり

秋の蝶巴なす三つ巴なす

蟬時雨メロディーライン無かりける

雨音のをさまりくれば草ひばり




いんげんの花の真白はけさ咲きし

女郎花の黄をつらぬける雨の針

中干の終はらぬうちの雨の日々

千草刈りひらきソーラーパネルとよ

鶏頭にこつてり紅きスカラップ




羽黒草ここの小径をことし又

この窪も鱒池たりき千草生ひ

鱒池のすれつからしの鱒の夏

ぽつかりとある瀧空を夏燕

瀧音の追ひすがりくる磴ほそし




法師蟬楽しき日々は過ぎやすく

秋風を聴く西郷の犬の耳

紅蓮の五日目ほどと見ゆるかな

黄花なほしがみつきありお数珠玉

「夏潮」十周年
一日(イチジツ)とも一 昔とも蓮に立ち