口うるささよ 本井英
叔母ひとり手狭まに暮らす残暑かな 新松子まつぼつくりも脇になほ 自転車の胸から上が蘆原を 沼風のおよびてはをり夏蕨 雀蜂に喰はれて蝶は翅四枚
秋鯖の腹のほのかに黄をおびし あをあをと紡錘のかたちに烏瓜 秋灯にあからさまなり御前立ち 鮒用の道具ですがと鯊を釣る 眺望や島崖は枸杞咲きさかり
女郎蜘蛛肥えてゆく日々空碧し 寺女の口うるささよ萩に雨 浜にはや佇む影は月の友 赤蜻蛉簗場の空の広からず 丘空に湧いて運動会の楽
裾風に雁金草の浮き上がり 林中の説明板の蛇拙な 蒲の穂の肉むらだてるあたりかな 稲架の影稲架を外れてありにけり 風のよく通へる落穂拾かな
投稿者「管理人」のアーカイブ
課題句(2017年11月号)
「落葉」 前田なな 選 主なき象舎に積もる落葉かな 津田祥子 朴落葉竜骨反らしをりにけり いく片か落葉溜に瑞みづし 常松ひろし ハイヒール埋めて銀杏落葉かな 田中 香 銀杏落葉や月の浜辺を歩むごと 櫻井茂之 シナモンを振つてコーヒー落葉時 前北かおる
光から雷鳴までを息つめて 木下典子
季題は「雷鳴」で夏。「雷」の傍題である。他に「神鳴」、「いかづち」、「はたたがみ」、「雷鳴」、「雷神」、「遠雷」、「落雷」、「雷雨」、「日雷」などが傍題として挙がっている。よく見ると、これらはみな「音」ばかりで、同時にもたらされるはずの「閃光」、すなわち「稲妻」は含んでいない。そして、何と「稲妻」は秋の部に、「稲妻」、「稲の殿」として取り扱われている。
つまり実際の自然現象としては、同時にセットで起きている「音」と「光」が、「歳時記」上では異なる季節の出来事ということになる。近代的な、あるいは西洋的な「合理主義」とはやや異なる、日本的な「感じ方」がここでは求められることになる。結論を先に言えば、我々日本人は「稲妻」の「稲」の部分に大いに反応し、「稲の妻」、「稲の殿」というように、稲が結実するための「外的な力」として「閃光」を考えていたわけである。俳句が決して全き「近代文学」では無く、「伝統の制約」を受け入れて成り立つ「伝統文芸」である所以はここにある。
とにもかくにも、「稲」が無事稔ってくれることを希求する、悲しいまでの「祈りの心」に同感を覚えなければ、このような「不合理」を「近代的日本人」と称する人々が理解することは出来ないであろう。「俳句」とは、この列島に営々と農耕民族として暮らしてきた祖先たちとの「あるアイデンティティー」を感ずる人にだけ開かれている、狭い狭い「領域」に過ぎないのである。
さて掲出句は、そうした一見矛盾に満ちた季題の世界を、精一杯合理的に詠むことに努力を傾注した一句と言えようか。「光」と叙して、実質的には「稲妻」を取り扱いながら、「光線」と「音響」の速度の差を(誰もが実感として知っている)、的確に、誰にでも同感できるように写生している。「息つめて」の表現も大袈裟でなく好感がもてる。(本井 英)
雑詠(2017年11月号)
光から雷鳴までを息つめて 木下典子 初蟬の聞こえ洗濯日和かな 紫陽花に木の影おとし一里塚 風鈴をいくつも下げて陶器市 退院や一日遅い鰻の日 矢沢六平 鉛筆で蟻のけんかを仲裁す 小野こゆき 冷麦へ氷ごろごろ落とし込む 山内裕子 あめんばう出合ひ頭の横つ跳び 河内玲子
主宰近詠(2017年11月号)
一
昔とも 本井英 避暑荘のウッドデッキに置くランプ 小庵と母屋を萩の隔てたり 秋の蝶巴なす三つ巴なす 蟬時雨メロディーライン無かりける 雨音のをさまりくれば草ひばり
いんげんの花の真白はけさ咲きし 女郎花の黄をつらぬける雨の針 中干の終はらぬうちの雨の日々 千草刈りひらきソーラーパネルとよ 鶏頭にこつてり紅きスカラップ
羽黒草ここの小径をことし又 この窪も鱒池たりき千草生ひ 鱒池のすれつからしの鱒の夏 ぽつかりとある瀧空を夏燕 瀧音の追ひすがりくる磴ほそし
法師蟬楽しき日々は過ぎやすく 秋風を聴く西郷の犬の耳 紅蓮の五日目ほどと見ゆるかな 黄花なほしがみつきありお数珠玉「夏潮」十周年一日とも一昔とも蓮に立ち